『さよならだけが人生ならば』 と 『だいせんじがけだらなよさ』 詩:寺山修司 歌:カルメン・マキ 1969年
2012年 01月 12日
勧 君 金 屈 巵
満 酌 不 須 辞
花 発 多 風 雨
人 生 足 別 離
君に勧む 金屈卮
満酌 辞するを須いず
花発いて 風雨多し
人生 別離足る
于武陵 『勧酒』
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
井伏鱒二 『勧酒(酒を勧む)』
「人生 別離足る」を井伏鱒二は「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」と訳され名文として知られているけれど、実は「さよならが多い人生だ」ということと解釈すれば、「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」と云った阿久悠の言葉に繋がる。「さようなら」とはなんとも美しい日本語であると再確認できる。「さようなら」或いは「さらば」とは、本来「さようであるならば」であり「然あれば」であるという。この長きに渡って何気なく使っている言葉がこんなにも深く重い意味を持つのです。日本人の精神や死生観、または武士道にまで繋がるように想います。運命を受け入れる、覚悟や潔さでもあり、これは決して諦めではない。ゆえに「さようであるならば」なのである。この日本語ならではの言葉の微妙さ、あわいはやはり「美」である。
そして、この「さよならだけが人生だ」という言葉を寺山修司はある意味人生訓のように問うことになったのだと想う。『さよならだけが人生ならば』は、井伏鱒二の訳詩へのアンサーソングのようなものとも少し違う。何故なら、カルメン・マキに『だいせんじがけだらなよさ』という詩も贈っている。さかさまに読むと「さよならだけが人生だ」となるのです。寺山修司は、いったいどれくらいこの言葉を読んだのだろう。こうした作業は問いとなり(問いが作業となり)、「さようなら」というお別れの言葉が死と結びつく時、その限りではなく、「さようなら」の後にも人の心の中で生きてゆくことに出合う。私的な想いながら、愛する両親の死からそろそろ20年という歳月の今、私のような情けない人間は父と母を弔い続けるなかで自分に問い続けるのだろう。これからさらに歳を重ね、「人間はたぶん、さよなら史がどれくらいぶ厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」という言葉の意味が、もっともっと沁み入るのだろう。やはり言葉は詩であります。
はるかなはるかな地の果てに咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんか いりません。
寺山修司 『さよならだけが人生ならば』
さみしくなると言ってみる ひとりぼっちのおまじない
わかれた人の思い出を わすれるためのおまじない
だいせんじがけだらなよさ だいせんじがけだらなよさ
さかさに読むとあの人が おしえてくれた歌になる
さよならだけがじんせいだ
さよならだけがじんせいだ
寺山修司 『だいせんじがけだらなよさ』
★寺山修司の詩を歌うカルメン・マキの『だいせんじがけだらなよさ』(1969年)です♪