『赤い靴』 作詞:野口雨情 作曲:本居長世★童謡の中の少女と実在の少女きみちゃんへの愛惜
2011年 05月 10日
異人さんに つれられて 行っちゃった
横浜の はとばから 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに あうたび 考える
野口雨情という詩人は童謡界の三大詩人(北原白秋と西條八十と共に)と謳われたお方で、多くの童謡を残されている。他にも好きな童謡が色々あるけれど、この『赤い靴』にはやはり格別な想いを寄せる。それは、ずっとずっと後になってから読んだ御本の中で、この詩の中の少女は実在していたと知ったことが大きい。少女きみちゃん(明治35年(1902年)7月15日~明治44年(1911年)9月15日)の母親は岩崎かよという女性で未婚の母としてこのきみちゃんを出産し母の手一つで育てていた。そして鈴木志郎という男性と結婚し静岡から北海道(虻田郡真狩村)へ。けれど、開拓地での3人の生活は苛酷過ぎるので、娘きみ(3歳の頃)をアメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエット夫妻の養女に。母かよの娘の将来を想う気持ちと手離したくない気持ちの葛藤は壮絶であっただろう。かよの弟も苛酷な労働で病死に至っており、夢の農場開拓団は2年で解散となり、夫妻は札幌に引き揚げる。苦労の末、ようやく志郎は北鳴新聞社に職を見つける。その新聞社に野口雨情がいた。それも、一軒家を二つの家族で借り、同じ屋根の下で暮らしたそうだ。かよが雨情夫妻に娘きみのことを話し、かよの悲しい過去を聞いた雨情は、後に『赤い靴』の詩を書いたという。
けれど、実在のきみとその短い人生が、北海道新聞へのある投書から判明することに。その投書の主は岡そのという女性で、かよと志郎の三女であるのできみの義理の妹ということになる。そのはどうか姉に会いたいという想いで投書したようだ。ヒュエット夫妻の養女になったきみは夫妻から我が子のように愛されたそうだけれど、きみは結核という病魔に侵されていた。夫妻に帰国命令が出され、困惑の果ての決断は東京麻布にあった孤児院に預けることに。この孤児院は恵まれない少女たちが多くいたという。きみちゃんはまたしても親が居なくなってしまったのだ。その上、当時は不治の病と云われていた結核という病気と闘いながら、僅か9歳という悲しくも短い命を閉じたのである。この調査の地や生誕の地には母かよと娘きみの母子像が建てられている。
このお話には他にも諸説が存在するようですが、私は事実がどうで云々という事にはあまり興味がない。少女が赤い靴を履いていたかいないとかは特に。ただ、詩人野口雨情と我が娘を手放すことになった母かよの存在及び交流は確かで、後は其々が各想いを抱けば良いのだと。「事実などは存在しない、ただ解釈だけが存在する」とニーチェの言葉が浮かぶ。私は解釈など大それたこともできないけれど、ヒュエット夫妻と異国(アメリカ)へ渡っているものだと想いながら、北海道で困窮に耐える母かよと、同じ日本(東京)に居ながら二度と再会する日が訪れることのなかった悲しい親子の運命を想い、少女きみちゃんに愛惜の念を抱くのです。