あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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タグ:少女映画 ( 95 ) タグの人気記事

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〜サロン・ド・ヴェルヴェット
(Salon de Velvet)
@短篇集〜
『chouchouの愛あればこそ♪』 第3回

12月6日(日)
場所:ギャラリー短篇集
大阪市北区浮田2丁目7-9 2F

開場:13:00 開始:13:30
終了:18:30
料金:2000円(1ドリンク+お菓子+プレゼント付)

※お席の都合上10名様限定となります。
ご予約はお問い合わせメール やこちらのコメント欄等でお願いいたします。
056.gif既にご予約を頂いている方々、ご協力くださる方々、
いつもありがとうございます☆
(ご予約は締め切らせて頂きました。ありがとうございました!)

まったく堅苦しい集いではございませんので、ご自由な装いでお越しください。
男子禁制ではございません。老若男女大歓迎です。
今回は忘年会&クリスマスを兼ねた年内最後の会となりますので、
お菓子など食べ物も前回より多くご用意させて頂きます。
当日は▲・Barもございます!お飲み物はこちらでお願いいたします。

第一部:~chouchouの「私の好きな歌」♪
音楽を流しながら大好きな音楽について気ままに語ります。
のんびりまったりご自由にお過ごしくださいませ。

(休憩)

第二部:〜chouchou&chibinovaの
ラジオ・で・ブリジット!「ラジオのように」♪〜

実験的に開始致しましたネットラジオの第3回目です。
今回はラジオの時間を前半・後半と休憩を入れながらたっぷりと!
☆二部の「ラジオ・で・ブリジット!」↓のみライヴ配信の予定です☆
配信方法はこちらのUSTで配信いたしました。
(期間限定で「過去の番組」からご視聴頂けます。)

内容は音楽&映画&アート&モアモア☆
前回好評でしたジャケ買いのお話もシリーズ化したいと思います。

今回の大まかなテーマは
フレンチ・ポップとニュー・ウェイヴとなりました

今回の構成は第二部の方がぐんと長くなる予定です。
後半はお客様もご自由におしゃべりにご参加ください〜

●プチ・ブース
Velvet Moon + ▲・Bar

スタッフ:Yamaten、Chibinova、Matsukawa、Poodle-chan。

※詳細は後程、追記・更新させて頂きます。
どうぞよろしくお願いいたします!


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by Claranomori | 2015-11-29 22:51 | お知らせ
この記事はブログのファンのみ閲覧できます

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by Claranomori | 2015-09-26 16:19 | わが麗しの夢幻音楽の旅

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週刊★chouchouの「わが麗しの夢幻音楽の旅」第5回♪
8/2(日)深夜1時(25時)配信の今回は、
前半は、ケルト・フォーキーな調べ「フィオナの海」、
後半は、シャンソンと映画「悲しみよこんにちは」
歌:ジュリエット・グレコとなりました。

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週刊★chouchouの「わが麗しの夢幻音楽の旅」♪

*今後はご登録(無料)の方のみの限定公開もございます。ご了承ください。
此方に掲載のものはブログ内での視聴は可能でございます。


週刊★chouchouの「わが麗しの夢幻音楽の旅」第5回♪
☆ちょっと暑さでぼぉ~っとしてしまいました。申し訳ございません☆
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次回の 8/30(日)深夜1時(25時)は、
「ブラジルの歌姫」と「歌う女優」のVOL.2としまして、
お気に入りの美しい音楽や映画を予定しています。

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☆日曜日の深夜1時(25時)にラジオのような感じでお届けいたします。
愛あれば­こそ、愛こそすべて!愛しき世界からの学びの日々です。
音楽が地球を救う!国境を越えて!という想いで、
まったりと音楽を中心に纏わるお話などの一人語りです。
どうぞ宜しくお願いいたします☆



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by Claranomori | 2015-08-03 06:49 | わが麗しの夢幻音楽の旅
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〜サロン・ド・ヴェルヴェット(Salon de Velvet)
@短篇集〜
『chouchouの愛あればこそ♪』 第2回

6月7日(日)
場所:ギャラリー短篇集
大阪市北区浮田2丁目7-9 2F

開場:13:00 開始:13:30
終了:18:00 ~ 18:30 (予定)
料金:2000円(1ドリンク+お菓子+割引券付)

※お席の都合上10名様限定となります。
ご予約はコメント欄や直接メール等でお願い致します。
(ご予約は締め切らせて頂きました。ありがとうございました!)

まったく堅苦しい集いではございませんので、ご自由な装いでお越しください。
男子禁制ではございません。老若男女大歓迎です。
お腹も空くかと思いますので、食べ物もご自由にご持参ください。
お菓子などを前回より多くご用意させて頂きます。
当日は▲・Barもございます!お飲み物はこちらでお願い致します。
レジュメには割引券が付いていますので、お買い物やドリンクにご利用ください。

第一部:〜chouchouとお茶を♪〜

●朗読
自作自由連詩「少女愛惜」
chouchou

●chouchouの「私の好きな歌」♪
音楽を流しながら大好きな音楽について気ままに語ります。

(休憩)

第二部:〜chouchou&chibinovaの
ラジオ・で・ブリジット!「ラジオのように」♪〜

実験的に開始致しましたネットラジオの第2回目です。
~chouchou&chibinovaのラジオ・で・ブリジット!「ラジオのように」♪~
☆↑第二部のみUST配信いたします。
(アーカイブの視聴期限は終了いたしました)☆

内容は音楽&映画&アート&モアモア☆
前回好評でしたジャケ買いのお話もシリーズ化したいと思います。

お客様もご自由にご参加ください〜
今回の構成は第二部の方が長くなる予定です。

●プチ・ブース
Velvet Moon + ▲・Bar

スタッフ:Yamaten、Chibinova、Matsukawa、Poodle-chan。

※詳細は後程、追記・更新させて頂きます。
どうぞよろしくお願いいたします!


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by Claranomori | 2015-05-27 16:39 | お知らせ
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 相も変わらず少年少女映画が大好き!なのですが、今日はちょっと懐かしい『ペーパー・ファミリー』という映画のことを。ドリュー・バリモアの映画デビュー作はケン・ラッセル監督の『アルタード・ステイツ / 未知への挑戦』(1979年)。その後『E.T.』で人気爆発。1984年には主役で『炎の少女チャーリー』と、この『ペーパー・ファミリー』、まだひと桁の幼き少女子役時代のドリューちゃんですが、既にかなり荒れた生活となっていたそうです。元々、映画一家のお嬢様で映画界への道は何の不思議もないお方ですが、子役スターの悲劇から復活され、現在もチャーミングな女優さまとして活躍されているのは嬉しい。お顔もあまり変わっていないですね。
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 9歳の少女ケイシー(ドリュー・バリモア)がなんと!「両親を離縁します。」との裁判場面から始まるお話です。1984年のアメリカ映画で日本公開は1988年。まだ幼い娘に裁かれる両親って?!どんな展開なのだろう、コメディ風な展開なのかと最初は思ったのですが、最後は何故かしんみりと泣いてしまいました。父アルバート(ライアン・オニール)と母ルーシー(シェリー・ロング)という配役も良かったです。ヒッチハイクで知り合ったアルバートとルーシーはその四日後に結婚。娘ケイシーが生まれ、小さなアパートで三人暮らし。歩く映画百科のようなアルバートは映画科の講師をしていたのだけれど、大物プロデューサーのデヴィッド・ケスラー(サム・ワナメイカー)に才能を買われ編集を任されることに。その映画『アメリカン・ロマンス』は大成功。二人は段々お金持ちになり、アパートから一軒家に。さらに大邸宅に住み、メイドを雇い、すっかり生活が変わってゆく。そんな日々をなんとなく淋しいと感じるルーシーも作家として成功したい夢がある。本来お料理上手なルーシーなのに、次第に娘の世話までメイド任せになってゆく。
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 二人の出会いは1972年という時代設定から9年間、この家族の経緯を回想しながら裁判は進む。裁判官や聴衆も呆れるほどの両親の身勝手さに言葉も出ない大人たち。少女ケイシーは裕福な生活でも心はひとりぼっち。最も懐いているのは世話をしてくれるメイドのマリア。マリアはスペイン系アメリカ人のようで、ケイシーは母親との会話でスペイン語を使うようになったり(小さな反抗)。虚ろな眼差しでテレビを観たり、9歳の少女が読むには過激な書物を読んだり。挙句の果てには父の浮気で両親は別居(浮気相手の素人女優役はシャロン・ストーン)。アルバートとルーシーは、喧嘩になると責任のなすり合い。孤独なケイシーの堪忍袋の緒が切れ、両親を離縁すると訴える羽目に。前代未聞の事でマスコミも駆けつけ大反響の渦中...。
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 アルバートは全財産を費やした『アトランタ』という映画が史上最低の不調作となり破産。一方、娘を連れて家を飛び出したルーシーは養育費はもらっているけれど、精神的にかなり疲労困憊。イライラしたり常に何か食べていたり(過食症)。ある日、スーパーで我が身の変化にハッとして奮起。アルバートとのこれまでの生活を基にした作品を一気に書き上げる。なんと、それがベストセラーとなり、今度はルーシーがアルバートの大豪邸を買い取ることに。なんだか、お話はテンポ良くコミカルながら実は深刻な問題が随所に見られる。それは都会の生活、仕事を持つ女性、両親と子供、また夫婦、メイドを含めた家族というもののかたち。9歳の少女は裁判の最後に自らの希望を告げる。「マリアの家族と一緒にくらしたい」と。「私は両親にとって犬(ペット)のような存在」と。マリアにも二人の子供がいる。こじんまりとした温かいマリアの家族たちとの暮らしを選ばなくてはならない9歳の少女って。ケイシーにはマリアという優しいメイドが長年居て良かった。メイドを雇えるアメリカ人は一部でしょうから。エンドロールで流れる曲は、フランク・シナトラの「You and Me」。その曲の意味(私なりの大意)は深いもので、ほろりとしてしまう。何かを得る代わりに何かを失う...。

 お互いの夢を掴んだけれど、
 小さな愛を失った

 後日、マリアの家族と暮らすことになったケイシーに週交代で逢いに行くアルバートとルーシー。失ってから大切なものを痛感した二人。ある日、ルーシーが面談日を間違え三人が顔を合すことになり、久しぶりに三人でのお食事。その時のケイシーは笑顔の輝く少女なのでした。アルバートとルーシーのお互いの心も完全に離れ切ってはいない。幸か不幸か、人生には色んなタイミングがある。一概にこの若き夫婦を非難できない。経済大国となった日本もよそ事ではなく家族崩壊が進む昨今、考えさせられる映画でもありました。

 所々笑える場面もありました。ライアン・オニールのアルバート役も良いのですが、ルーシー役のシェリー・ロングはやっぱりキュートなコメディエンヌ!同じ時期にベット・ミドラーと共演した『うるさい女たち』(1987年)もとっても素敵でした。ほっそりとしたスタイルとコミカルな動き(目や手の表現など)が実に愛らしい女優さまです。

ペーパー・ファミリー / IRRECONCILABLE DIFFERENCES
1984年・アメリカ映画

監督:チャールズ・シャイア
製作:アーリン・セラーズ / アレックス・ウィニツキー
製作総指揮:ナンシー・マイヤーズ
脚本:ナンシー・マイヤーズ / チャールズ・シャイア
撮影:ウィリアム・A・フレイカー
音楽:ポール・ド・セネヴァル / オリヴィエ・トゥーサン
出演:ライアン・オニール / シェリー・ロング / ドリュー・バリモア / サム・ワナメイカー
アレン・ガーフィールド / シャロン・ストーン / ルアナ・アンダース / ジェニー・ガゴ

●追記●
 エキサイト様のブログ機能が大きく変わり、ウロウロしています...機械音痴なので、慣れるまでもう少し時間が必要なようです。字体が表示と違うのはどうしてでしょう...ふむふむ。無料で使わせて頂いているので感謝しなくては☆

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by claranomori | 2013-11-19 00:18 | 銀幕の少女たち・少女映画
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★アニエス・ヴァルダ監督の『冬の旅 (さすらう女)』(1985年)。原題は「屋根も無く、法も無く」あるいは「ヴァガボンド」。美しく詩的な映像で始まる寒い冬の南仏の木々。アニエス・ヴァルダ監督のナレーションが聞こえる。その中で、少女モナは”海からやって来たのかもしれない”と。凍てつく寒さの中、海で泳いでいる。この18歳の少女の死を映し出し、彼女に出会った人々の証言たちが。彼等はモナが死んだ事を知らずに語ってゆく。初めて観た折の私は正直モナを好きになれなかった。ヴァルダの作品はそれでも美しく、また、モナの何かが私に記憶され続けていた。年月を経て、今想う事はモナの反抗、自由、孤独の中に見る崇高さのようなものに憧れるのだろうか。イデオロギーに反発するのでもなく、モナは失うものを持っていない。それは孤独と表裏一体。「孤独」や「自由」って何だろう...人は誰もが孤独ではないか。でも、モナの孤独は死を持って崇高さを獲得したようにも想う。私は「自由」というものを真剣に求めたことなどない。育った環境や教育、モナの年の頃はバブルな時代を過ごしていた。また、私は「失いたくないものがある」。それ故に、社会との鬩ぎ合いの中でバランスを保ちながらどうにかこうにか生きている。ちっぽけな私の愛する王国のために。人生は苛酷なものであるという前提にそれでも、空を見上げることを忘れたくはないと。蒼い幻想...。

アニエス・ヴァルダは戦中、戦後、60年代という、激動の時代を体験して来たお方。この映画の中でプラタナスは重要。アメリカからやって来た菌に侵されたプラタナスは、後30年で朽ちてしまうという(ドアーズの音楽が使われている)。それを放っておいてはいけないと研究している独身の女性教授ランディエ。証言の中で、彼女はモナを置き去りにしたことを後悔し、助手にモナを探して連れ戻すように依頼している。しかし、終盤、助手はモナを駅の構内で見つけるけれど、ランディエ教授には見つけたと言わなかった。彼は当初からモナの汚れた髪や衣服、悪臭を敬遠していた。教授は寛容で「もう慣れたわ」と語っていた。私もモナと知り合えたら慣れていただろうか。毎日幾度も手を洗う癖のある私がモナの垢だらけの指を我慢できただろうか(これは、単なる私の病理的なことに過ぎないのだけれど)。複雑な想いが巡る中、それでもこのモナは光の少女として映る。美しいとも想う、このアンビバレントな気持ちは何だろう。きっと、私には持ち合わせていない「自由」を持つ少女が羨ましいのかもしれない。

それにしても、ヴァルダというお方は強靭だ。純粋無垢な少女として敢えて描いてはいない。モナは行きずりの男性と共に過ごすし、少女の汚れた爪を映し出す。女性監督ならではの感性、と言っても様々なのだと幾人かの女性監督が浮かぶ。私は映画を娯楽として愉しみ、また、多くのことを学び思考を強いられ苦しくなることもある。この作品はそんな一つ。サンドリーヌ・ボネールは撮影当時このモナと同い年位。素晴らしい女優さま!

モナは旅を選んだ。路上には、日常的な暴力があり、飢えと渇き、恐怖、そして寒さがある。彼女はそれを生き凌ぎ、何事が起ころうと、誰に出会おうとも意に介さない。私自身、彼女にひどくぞんざいにされた。が、それだけいっそう、彼女の孤独に胸をうたれる。

アニエス・ヴァルダ

このお言葉にあるラスト「私自身、彼女にひどくぞんざいにされた。が、それだけいっそう、彼女の孤独に胸をうたれる。」を読み、私は涙に溢れた。救われた気がしたのです。上手く心を綴れないけれど...。
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【あらすじ】 少女がひとり、行き倒れて寒さで死んだ。誰に知られる事もなく共同墓地に葬られた少女モナ。彼女が誰であったのか、それは彼女が死ぬ前の数週間に彼女と出会った人々の証言を聞くほかなかった。また、証言でわかるものでもない。少女の名はモナ(サンドリーヌ・ボネール)、18歳。寝袋とテントを担いでヒッチハイクをしながらのあてどのない旅。時折、知り合った若者と宿を共にしたり、農場にしばらく棲みついたりすることはあったものの、所詮行きずりの人々にモナがその内面を垣間見せることは滅多になく、また何処ともなく消えてゆくのが習いだった。ある時、プラタナスの病気を研究している女性教授ランディエ(マーシャ・メリル)がモナのことを拾う。ぽつりぽつりと自らのことを語るモナ。ランディエも彼女に憐れみを覚えるが、結局どうすることもできず、食料を与えて置き去りにする。モナは森の中で浮浪者に犯された。またしても放浪の旅を続けるモナはついにはテムの街で浮浪者のロベールたちと知り合い、すっかり荒んだ様子になってしまった。そしてそこへ、前にモナと空き家の別荘で暮らしていたユダヤ人青年ダヴィッド(パトリック・レプシンスキ)がやってきて、マリファナの取引きのことでロベールといさかいになってモナの住んでいたアジトは火に包まれてしまう。すっかり薄汚れて再び路上に戻ったモナはパンを求めて近くの村に赴くが、今しもそこはブドウ酒の澱かけ祭のさなか。何も知らないモナは彼女に澱をかけようとする屈強の男たちに追われ、恐怖に顔をひきつらせ、そのまま力尽きて路傍に倒れ込む。

冬の旅 / SANS TOIT NI LOI
1985年・フランス映画
監督・脚本:アニエス・ヴァルダ 
撮影:パトリック・ブロシェ 音楽:ジョアンナ・ブルゾヴィッチ 
出演:サンドリーヌ・ボネール、マーシャ・メリル、ステファン・フレイス、
ヨランド・モロー、パトリック・レプシンスキー、マルト・ジャルニアス

関連:いつまでも大好き!★カトリーヌ・ランジェ:CATHERINE RINGER(レ・リタ・ミツコ:LES RITA MITSOUKO)♪

※この『冬の旅』は2009年に綴ったものに画像追加いたしました。
以前の映画雑記を少しずつ整理しています♪
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by claranomori | 2013-03-24 15:54 | 銀幕の少女たち・少女映画
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★久しぶりに映画のこと、少女映画を。レオ・マッケリー監督の1945年映画で『聖メリーの鐘(セント・メリーの鐘)』。主演は名優のお二人で、ビング・クロスビーとイングリッド・バーグマンなのですが、少年少女たちのお話でもあります。同じくビング・クロスビー主演で同役柄のオマリー神父は前年の『我が道を往く』に続くものです。ビング・クロスビーは勿論、イングリッド・バーグマンの歌声(スウェーデンの唄で「It's Spring」)も聴けるのですが、兎にも角にもバーグマンの尼僧姿がお美しいのです!また少女パッツィ役のジョーン・キャロルはヴィンセント・ミネリ監督の『若草の頃』(1944年)に続く出演作でもあります。
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進歩的、革新的な思考の持ち主であるオマリー神父(ビング・クロスビー)と、心の強い美しいシスター・ベネディクト(イングリッド・バーグマン)は謂わば保守的で祈りで目の前の大問題を解決できると信じ、敬虔であるが楽観的でもある。この神父とシスターは子供たちの教育方針も異なるけれど、神父の寛容さもあり、次第に協力しながら教会の運営の危機を乗り越える。その一方で、家庭の事情から母親が13歳の少女パッツィ(ジョーン・キャロル)を教会に寄宿させるために連れて来る。この少女の成績が悪いことの視点も神父とシスターは異なる。また、使用人の息子エディ(リチャード・タイラー)が他の生徒との喧嘩で殴られてしまう事件も起こる。神父は男子の喧嘩にも寛容であるけれど、シスターは違った。けれど、このエディには防衛策としてのボクシングを教えることに。バーグマンが尼僧姿で少年にボクシング指導する場面は微笑ましく今も蘇ります。オマリー神父は教育に歌を導入し、少年少女たちの心も次第に朗らかになってゆく。パッツィも作文に才能を発揮するようになり、エディも頼もしくなってゆく。神父とシスターは理解し合えたけれど、シスターは病いの療養のために教会を去る日が訪れる。その姿を何とも云い難い気持ちでオマリー神父はみつめながら、お互い最後は安堵の気持ちでお別れする・・・。

オマリー神父とシスター・ベネディクトの考え方の違い、それでも窮地の教会を守るために協力してゆく過程には、意見が違えどもお互いを尊重し合うという心がある。教育の世界のみならず、どの職場でも学校でも通じる大切なことだと想います。この『聖メリーの鐘(セント・メリーの鐘)』は1945年のアメリカ映画である。その頃の日本は...などと想いを馳せながら、この素晴らしいクラシック映画を想い出すのでした。

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●あらすじ●
聖ドミニック教会を再建すると、雪の降るクリスマスの晩に、ひょう然と立ち去った神父オマリーが、赴任したのは聖メリーの教区であった。ここには学園が付属しているが、老神父オーガディには窮迫している教区の財政を建て直す能力はなかった。オマリー神父が来たのは、そのためでもあった。学園は尼僧長ベネディクト尼が、学園長として教育と経営の任に当たっているが、教育家としては申し分ないにしても、経営の方は円滑に行かないのは是非もないことだった。オマリー神父はベネディクト尼が余りにも若く美しいのにびっくりしたが、さすがに若くして尼僧長になるだけのしっかりした性格を持ていた。学園の隣には建築中の大きなビルディングがあった。そこは以前学園の運動場だったのを、実業家ボダーガスが買い取ったのである。ベネディクト尼は、それが完成したら、ボダーガスが学園に寄付するだろうと思って毎日そうなるように祈っているというのであった。オマリー神父は彼女が余りにも世間を知らなすぎるのに、かつ驚きかつ憂えるのであった。

ある日一見して夜の女であると思われる婦人が、オマリー神父を訪ねて来た。テレサ・ギャラガーという女で、12年前夫ジョウが家出して以来、一人娘のパッシーを抱え辛い世渡りをして来たが、娘が13になって母の職業を勘づいた様子なので、学園に寄宿させて頂きたいというのだ。神父が承知したので、彼女は翌日パッシーを伴って来た。オマリー神父は孤独な生活がパッシーの生活をひねくれさせていることを知ったが、ベネディクト尼は勉強嫌いでパッシーの成績が悪いのだと単純に思い決めているので、彼女の訓育について神父と尼僧長の意見は合わなかった。ボダーガスはベネディクト尼がビルディングを寄付をされたいと申し入れて来たのにびっくりして、憤慨したため持病の心臓病に障り病臥してしまった。オマリー神父が見舞いに行くと医師が来ていて、病気は心労のせいだと言った。神父は医師にボダーガス氏がビルディングを学園に寄付してしまえば心労がなくなるだろうにと言った。ところが医師から言われたと見え、数日後ボダーガスはベネディクト尼を訪れ、寄付を正式に申し出た。尼僧長は大喜びだったが、オマリーは彼女が肺を侵されていることを医師から聞くと、彼女をアリゾナの病院へ転勤させる手続きをした。

彼女はパッシーを卒業させないので、神父が意趣返しをしたのではないかと思っている様子だった。卒業式を終わると尼僧長は出発することになっていたが、オマリー神父はパッシーから自宅に帰るのがいやで、答案を下手に書いたという告白を聞いた。しかもテレサはジョウが帰宅したといって二人連れで、娘の卒業式を見に学園を訪れた。神父が困ったことになったと心配していると、尼僧長がパッシーも卒業させると言出し、彼女を式場に連れて行った。卒業式が終わるとベネディクト尼はあいさつして出て行った。それを見ると神父は堪らなくなって追いかけた。そして彼女がアリゾナに転勤になる理由は、彼女の健康のためであること、彼女の肺が少し悪いからだと、告げたのである。ベネディクト尼の顔は晴れやかに輝いた。神父に対する一片の疑惑の雲もなくなったからであろう。ベネディクト尼は健康を回復したら、また帰って参りますと言った。オマリー神父も再会のその日を待ちましょうと握手して別れた。
(参照:goo cinemaより)
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聖メリーの鐘 / THE BELLS OF ST. MARY'S
1945年・アメリカ映画
監督・製作・原作:レオ・マッケリー
脚本:ダドリー・ニコルズ 撮影:ジョージ・バーンズ
作詞:ジョニー・バーク 作曲:ジミー・ヴァン・ヒューゼン 音楽:ロバート・エメット・ドーラン
出演:ビング・クロスビー / イングリッド・バーグマン / ヘンリー・トラヴァース
ジョーン・キャロル / ウィリアム・ガーガン/ リチャード・タイラー

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by Claranomori | 2012-09-28 10:29 | 銀幕の少女たち・少女映画
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★宮本輝の『泥の河』を映画化した小栗康平監督の1981年映画。原作は1977年に刊行され太宰治賞を受賞。作者である宮本輝の幼少年期に刻まれたものを回想し、滅び行く者たちの姿や風景を主人公の少年である信雄の眼によって描いている。原作で舞台は昭和30年の大阪であることがはっきり記されている。昭和10年代の名残りのある風景、馬車引きや水上生活者たちがいた頃、高度経済成長の始まる直前であり、そうした生活風俗の最後の時代を知ることができる。私は先に映画を観て、たいそう感銘を受けた作品です。そして直ぐに宮本輝の原作を読み、さらなる深い想いを抱いたものです。滅び行くもの、失われてゆく日本人の美徳を想う中、この大好きな日本映画のことを少しばかり。

モノクロームな美しい映像の中の二人の少年と一人の少女。そして、親たちや同じ街に住む人々の姿。見事な映画化で、日本の名優のお一人であった故、田村高廣の姿が今も浮かぶ。ご自身でも、出演された作品の中で最も好きな作品であると語っておられた『泥の河』。子役の三人、大人たちを演じる個性溢れる俳優方、すべて素晴らしい。初めは声だけで登場する夫を亡くし夜になるとその舟で男性の相手をして過ごす女性(母)を演じる加賀まりこも美しい。そうして娘と息子を辛うじて育てている(二人の子供は小学校に行っていない)、何とも云えぬ悲哀もまた焼きついている。この原作も映画もやはり「哀切」という言葉が相応しい。その哀切の中に見える「美」を想う。貧しさの中の美学だってある。以前触れた、『木靴の樹』というエルマンノ・オルミ監督のイタリア映画の、"貧しい者ほど、神に近いのだ"と語る母親の言葉も蘇る。綺麗ごとではなくて、やはりお金より心や志の方がずっと尊いと私は強く想う。貧しくて心まで荒んでゆく人々も多い。けれど、そうではないのだと、この『泥の河』が日本の嘗て確かに在った日本人の美徳を刻んでいる。人情であったり思いやり、また慎ましさや慈しみが誰に強制されることなく自然と家族内にもご近所の人達、地域に在った。それは私の子供の頃の情景としても憶えている。
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お米、温《ぬく》いんやで

お米がいっぱい詰まってる米櫃に手ェ入れて温もってるときが、いちばんしあわせや。
・・・・・うちの母ちゃん、そない言うてたわ

主人公の少年信雄の家に遊びに来て、調理場の米櫃に手を入れて語る、少女銀子がまた愛おしい。少年は、その少女の母親とはまったく違う二重の丸い目を見つめて、近所に住むどの女の子よりも銀子は美しいと思った。けれど、水上生活者である一家(母と少女と少年)は、信雄に別れも告げずに他に流れてゆく別れの場面で終える。一隻のポンポン船が舟の家を曳いてゆく。少年信雄は、同じくらいの年である少年きっちゃんの名を呼びながらその船の後を追う。「きっちゃん、きっちゃん」と川筋の道を小走りに上ってゆきながら大声で呼ぶ。「きっちゃん、きっちゃん」といくら呼んでも船の母子は応えてくれなかった。何本目かの橋にかかった折に、川波の中で何やら光るものを見る。いつぞやに見た「お化け鯉」。「お化けや。きっちゃん、お化け鯉や!」信雄は必死で叫ぶ。「きっちゃん、お化けや。ほんまにお化けがうしろにいてるんやでェ」と最後にもう一度声をふりしぼって叫び、とうとう追うのをやめる。熱い欄干の上に手を置いて、曳かれてゆく舟の家と、そのあとにぴったりくっついたまま泥まみれの河を悠揚と泳いでゆくお化け鯉を見つめる少年の姿で終える。お化け鯉は高度経済成長の影の姿でもあるのだろう。

★映画化されたのは1981年。既に日本は高度経済成長を続け、一億総中流の日本人となって行った。その私たちが忘れてしまったもの、失ってしまったもの、消えて行こうとするものたちの中に、生きてゆくことの哀しみと共にある日本人特有の美徳が確かに在ったことを忘れたくはない。そして、再び想い起こし考え取り戻すこともできると想う。朽ち行くものを解体及び破壊し、新たなものへ。それは私たちの生活が豊かになるのと同時に、何か心を悪魔に売り渡したようにさえ想う。それは、今回の原発事故によって大きな精神的衝撃を受けることで目が覚めたこと。アメリカ型の生活形態となってゆく過程は、今となれば「アメリカン・ドリーム」という妄想に翻弄されていた時代だったのだろう。でも、それを否定はできない。何故なら、戦後の焼け野原からの再構築に戦前戦後を生きた先人方の命がけの姿は尊いのだから。そんな時代も知らず、ぬくぬく育った私に何も云う資格はない。それでも、私たちの次の世代、その後の世代と続く。生きている私よりやはり日本が亡国になる危機感の方が強い。そうした気持ちが私の心の中にはっきり刻まれたこと、それは自然と共に常に生きて来た日本人の根幹とも云える豊かな土壌の東北での大地震と大津波、そして原発事故による、復興ままならぬ状況の今、再び想い起すべきものは何か。それは失われてゆく、まだ消え失せてはいない日本人の美徳なのではないかと想います。

泥の河
1981年・日本映画
監督:小栗康平 
助監督:高司暁 製作:木村元
原作:宮本輝 『泥の河』 脚本:重森孝子
撮影:安藤庄平 美術:内藤昭
編集:小川信夫 音楽:毛利蔵人
出演:田村高廣、藤田弓子、朝原靖貴、加賀まりこ、桜井稔、柴田真生子、
初音礼子、西山嘉孝、芦屋雁之助、蟹江敬三、殿山泰司、八木昌子


【あらすじ】 舞台は昭和三十一年の大阪。河っぷちの食堂に毎日立ち寄っていた荷車のオッチャンが事故で死んだ。ある朝、食堂の息子、信雄は置き去りにされた荷車から鉄屑を盗もうとしていた少年、喜一に出会った。喜一は、対岸に繋がれているみすぼらしい舟に住んでおり、信雄は銀子という優しい姉にも会った。信雄の父、晋平は、夜、あの舟に行ってはいけないという。しかし、父母は姉弟を夕食に呼んで、暖かくもてなした。楽しみにしていた天神祭りがきた。初めてお金を持って祭りに出た信雄は人込みでそれを落としてしまう。しょげた信雄を楽しませようと喜一は強引に船の家に誘った。泥の河に突きさした竹箒に、宝物の蟹の巣があった。喜一はランプの油に蟹をつけ、火をつけた。蟹は舟べりを逃げた。蟹を追った信雄は窓から喜一の母の姿を見た。裸の男の背が暗がりに動いていた。次の日、喜一の舟は岸を離れた。「きっちゃーん!」と呼びながら追い続けた信雄は、悲しみの感情をはじめて自分の人生に結びつけたのである。船は何十年後かの繁栄と絶望とを象徴するように、ビルの暗い谷間に消えていく。 (参照:goo映画より)
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by claranomori | 2012-02-15 14:37 | 文学と映画★文芸・史劇
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★もう何度も書いている『クリスチーネ・F』ですが、この度パッケージも新装版にてDVD再発売が決定いたしました。発売は今月2月24日です。この画像はそのチラシの表紙です。痛々しい美少女クリスチーネの後ろには彼女が大好きだったデヴィッド・ボウイのポスターも写っています。今回のDVDでの特典は映像特典として、「当時を振り返る監督インタビュー」、封入特典として、「飾っておきたいCDジャケットサイズ フォトデザイン・ライナーノーツ(音楽ライター 小田島久恵)」と嬉しい内容です。

私は当時劇場で鑑賞し、たいそう衝撃を受けた想い出の映画です。長らく廃盤状態でビデオを友人にプレゼントする為に保存しているのですが、DVD化されたらそちらの方が良いだろうなと発売日が待ち遠しい朗報でした。少女映画としても異色の内容で、またデヴィッド・ボウイのファンにも必須な作品です。これまでにこの『クリスチーネ・F』について書いたものを以下に再度掲載させて頂きます。『クリスチーネ・F』は、私が映画館で鑑賞した最初のドイツ映画でもあります。随分年月が経ちましたが、あの日の光景、観終えひとり帰宅する中での複雑な想いを抱いていたあの頃が蘇ります。私もまだ10代でした。あの時期に観れた幸運はかけがえのないもので、涙が出ます。デヴィッド・ボウイとは、私にとっても、いつも片時も離れず閃光を放つ美の化身「神に近い存在であった」のです。

13歳のクリスチーネは、デヴィッド・ボウイが好きな普通の少女であった。誘われて始めたドラッグにすっかりハマリ、人生は大きく変わってしまった。薬を買う金欲しさに街に立ち体を売り、禁断症状にのたうち回る。抜け出せない苦しみは延々と続く。死と隣り合わせのクリスチーネはどうなってしまうのか?クリスチーネが焦がれたデヴィッド・ボウイの歌が、まるで救いのようにただ流れるだけだった―


★劇中デヴィッド・ボウイご本人役として登場され歌われる『ステーション・トゥ・ステーション♪

●関連記事:『クリスチーネ・F (われら動物園駅の子供たち)』のナーチャ・ブルンクホルスト:NATJA BRUNCKHORST♪
●関連記事:ボウイを見つめる美少女クリスチーネ(ナーチャ・ブルンクホルスト) 映画『クリスチーネ・F』より再び♪
●関連記事:『クリスチーネ・F』音楽デヴィッド・ボウイ★劇中歌われる『ステーション・トゥ・ステーション』(1981)
●関連記事:映画『クリスチーネ F』の中の素晴らしいボウイ・ライヴ
●関連記事:映画『クリスチーネ・F』とサウンドトラック
※以前に書いたもので、内容が重複する箇所もございます。

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クリスチーネ・F 新装版DVD
1981年・西ドイツ映画
監督:ウルリッヒ・エデル
原作:カイ・ヘルマン、ホルスト・リーク 
脚本:ヘルマン・バイゲル
音楽:デヴィッド・ボウイ、ユルゲン・クニーパー 
出演:ナーチャ・ブルンクホルスト、トーマス・ハルシュタイン、イェンス・クーパル、クリスチーヌ・ライヒェルト、クリスチーヌ・レハル、デヴィッド・ボウイ(本人役)






●追記です●
★デヴィッド・ボウイとはなんであろうか!!実は、最近ボウイについて何も書けなくなっています。理由は自分でも分からず、ボウイが今も一等大好きなアーティストであり音楽であることには変わりはない。けれど...。私は長い間、大人になること、社会人として生きてゆくことに途轍もない戸惑いと葛藤が続きました。バカなお話のようですが、どうしようもない事実で、あの10代後半期(特に16歳から18歳の頃は神経症なまでに)はある種の病的なまでもの潔癖性を保ち、私はある自分の殻の中に閉じこもり問答していたのです。クラスメイトの誰にも告げることもできないこと。大人になってもまだ続き、先輩の女性に少しお話してみたのですが、やはり「そんな考えは病的だよ」と云われ、それ以後また自己問答。きっと、今も完全に解き放たれてはいないのかもしれない。それでも、私はもう子供ではないし戻ることもできない。ただ、いつでも無邪気な幼い頃、そして思春期の光と影の自分が蘇る。その時にデヴィッド・ボウイというお方がいつも、絶体にいつも、一緒に居た。私の心はデヴィッド・ボウイの美のお陰で均衡をどうにか保たれていたように今も想えます。もう23時頃から涙が止まらなくて、久しぶりに号泣しています。そんな私なもので、心の旅路の記録として、この「クララの森・少女愛惜」があるのだとも想えます。皆様、いつもありがとうございます☆
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by claranomori | 2012-02-04 23:55 | 銀幕の少女たち・少女映画
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★以前『少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ:NADINE NORTIER) ロベール・ブレッソン監督』として綴った『少女ムシェット』を再びというか追記です。重く悲惨で残酷な僅か14歳の生。ロベール・ブレッソン監督が『田舎司祭の日記』の原作者でもあるジョルジュ・ベルナノスの原作を今作でも映画化したもの。14歳の少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ)はどうしようもなく救いがない。大体名前からして・・・。どうしてここまで!という程。貧困や苦悩なら誰にも大なり小なりある。自分だけが世界で一番不幸者のように思い込むこともあるだろうけれど、探せば救いは見つかることが多いと私は信じている。でも、このムシェットに関してはもう孤独で死しか救いがなかったのだろう...と思えてしまう。飲んだくれの父、病床の母、まだ小さな乳離れしていない赤ん坊の弟、そして兄と貧しい生活を送っている。父はまったく働く気持ちもなく息子にお酒の密売をさせている。何もしないこの父はアル中で凶暴でムシェットに対して信じられないほどの八つ当たりをする。そんな環境(家庭)から学校へ通うけれど、これまた、学校でも級友や教師からさえ嘲笑いの対象なのだ(もう憤りとやるせなさで痛い!)。お友達もいない孤独なムシェットが、移動遊園地のバンピング・カーで遊ぶシーンだけは楽しそうで好きなシーン。後ろから男の子がバンバンと車をぶつけてくるのだけれど、相手にしてもらっていることに喜びを感じているのだ、いじらしい少女の心。でも、まだまだ不幸は襲ってくる。雨の日の森で密猟をしている男性アルセーヌは森番を殺したと言い、そのアリバイ工作をムシェットに頼む。てんかん持ちで発作を起こしたアルセーヌが落ち着くと、その場にいるムシェットを奪ってしまう...。怖かっただろう...とても!逃げ出すように家に戻り母にだけは伝えたかったけれど、弟にミルクを飲ませなければならず、父も兄もおらず、母は死んでしまう。もう、これでもかというくらいの痛めつけである、悪意の大人たちや社会による。そして、老婆に白いモスリンのお洋服を貰い、崖(土砂)の上から下の池に向かってそのモスリンを体に合わせて転がってみる。そして、また上まで上り、今度は加速をつけて転がってみる。そして、再度さらに加速をつけて転がりドボン...と池の音と白いモスリンが浮かんでいる。ムシェットの死の描き方まで、冷徹な眼差しでこの冷たさはヒリヒリと突き刺さり胸が痛い。台詞もほとんどないモノクロームな映像。音と冷厳な視線の徹し方。
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『少女ムシェット』は、人が故意に眼をそむけようとしている残酷さと悲惨さを暴露しています。残酷さはいたるところにあります。戦争、拷問、強制収容所、老人を殺害する若い男女などに見られます。オスカー・ワイルドは、「普通の残酷さは単純に愚かさから生じています。それはイマジネーションが完全に欠乏しているからです。」というような意味の事を述べています。確かにイマジネーションの欠乏が残酷さにつながります。第二次世界大戦が勃発した頃、私は軍の宿営地で1人の兵士が家兎の皮を剥いでいるいるのを見て、ギクッとさせられたことがありました。 

ロベール・ブレッソン

「残酷さと悲惨さの暴露」とブレッソン監督のお言葉。野兎が狩られるシーンなどもそういう残酷さのひとつのようだし、ただ一人だけ優しい食料品店の女主人がコーヒーとパンをムシェットに与えてくれる。ムシェットがカップをひっくり返してしまった途端!掌を返したように罵声を浴びせるシーンも怖かった...こういう人いるように思う。愚劣な大人たちや社会の犠牲者のような14歳の少女の死。これはある意味、殉職者のようにも思える。孤高の映像詩人のロベール・ブレッソンの映画は重く厳格なものが多いけれど、私はとても好き。観なくてはならない映画だと思ってしまう。ベルナルド・ベルトルッチ監督とジャン=リュック・ゴダール監督はこの映画を絶賛していたそうだ。ゴダールは『ウィークエンド』でジャン=クロード・ギルベールを起用している。ベルトルッチは『ドリーマーズ』で引用している。イングマール・ベルイマン監督は「さっぱり、分からん。最悪だ。」と仰ったという。賛否両論の作品であり、全く商業的な世界から遠くにいる(ブレッソン監督というお方がそうなのだろうけれど)。古い作品をこうして私は再見してはなにかしら考えることができる。考える映画は本来好きなのだと思う。映画は最良の娯楽だという前提で☆
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by claranomori | 2011-08-13 15:55 | 文学と映画★文芸・史劇