あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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タグ:ロマン主義・ロマン派 ( 30 ) タグの人気記事

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 わあ!何と今年最初の投稿となります。いつも気にかけてくださっている皆様、ありがとうございます!年末年始とバタバタしており、確定申告も終えましたので、そろそろブログの更新ものんびりですが頑張ろうと思います。お正月の初詣の折のおみくじに書かれていた言葉は、私自身の想いととても重なる尊きお言葉でした。総じて「これまでの歩みに誠実に励みなさい」というような意味だと解釈しました。私の場合、気が付けばずっと「音楽」に関わるお仕事で、それには何か深いご縁をも感じています。10代の頃から「生きるということは何だろう?」「なぜ、大人になってゆくのだろう」「どうして、こんなに音楽が好きなのだろう?」「ボウイはどうしてこんなに美しいのだろう!」「美とはなんだろう?」...etc.と「なぜ?」ばかりの自問自答人生を続けています。

 大好きな音楽や映画、文学や絵画の中から数多の発見と学びの日々はずっと続くのだと思います。「たかが音楽、されど音楽」な訳で、どうした事か大好きな音楽の多くには各アーティストの主張があったり、抽象的な歌詞であっても強く響く言葉がある。また時に歌詞のない音楽のメロディから響く詩もある。それはどうしてだろう?その時の社会とは?と、その国々の歴史背景を調べてみたりしていると、太古の時を往来する事も多い。そんな音楽たちが大好きでたまりません。人其々の音楽の愉しみ方がありますが、どうも私は探求したいようです。その起源はデヴィッド・ボウイという稀有なるアーティストに魅せられた者の宿命だと拝受。答えの見つからない難題である「音楽ってなんだろう?!」という永遠のテーマを傍らに、愛しきものたちと人生を共に、これからも歩んでゆけたら本望だと思います。

 そんな想いの中、再読したフルトヴェングラーの最晩年(1954年)の『音と言葉』という音楽評論集の中に、とても共鳴した文章がいくつもありました。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(WILHELM FURTWANGLER:1886年1月25日~1954年11月30日)は、西ドイツ、バーデン出身の指揮者であり作曲家。20世紀を代表する指揮者のお一人であり、また作曲家としては後期ドイツ・ロマン派の系譜にあるとされる。けれど、ご本人はその後期ロマン派との呼称に複雑な想いを抱いておられたようでもあります。第一次世界大戦、第二次世界大戦と大きな二つの戦争の時代を生きたお方で、ワーグナー、ベートーヴェン、バッハ、ブラームスの悲劇的生涯の中に問いつめ、悲しみ、哀惜せずにはいられないフルトヴェングラーの芸術家としての危機感、その想いは、生きた時代も国も異なる私にも伝わるような気がします。

 「私たちはもう芸術の中に生きているのではない。単なる傍観者になってしまった」というフルトヴェングラーの嘆き。それはもう後戻りできない科学の進歩の中で、時計の針を戻すような思考ではなく、人間の情、生命、故郷をも忘れてはならないのだという、悲痛なる嘆きに思えます。ある意味、わが国日本に於ける明治の維新が復古でもあったこととも通ずるような。
 ―少なくとも今日のための―基底となるよう、この国の中へ、家々の中に降りてきていただきたい。あがない得た歴史的な展望を、指針として用いるべきであって、支配せんとするために使用してはなりません。芸術作品という不回帰の出来事を、それは直接我々に関する出来事であるゆえに、歴史的な関連と同様に、いやむしろそれ以上に尊敬していただきたいのです。真の偉大さに対する愛、熱狂的な、なんの保留をも付けない献身的な愛情を持つことを、もう一度学んでいただきたい。 
 『音と言葉』 すべて偉大なものは単純である フルトヴェングラー
 一言にしていえば、「美しい心を取り戻す」という事だったかもしれない。この意味で彼はゲーテやトーマス・マンなどとは血縁であり、余り遠く隔たった所にいたのではない。彼の名演奏の秘密の一端はそこにうかがえるような気がする。
芳賀檀 あとがき より

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、リヒャルト・ワーグナーの『ジークフリート牧歌』です♪


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by Claranomori | 2014-03-21 23:16 | 詩人・作家・画家・芸術家
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Joyeux Noël !

今日はクリスマス・イヴですね。とっても寒波のクリスマスとなりました。26日には新内閣誕生となるのですが、限られた隣国の動向は相変わらず不穏で危機感を募らせる師走です。でも、寒さを愉しむ事の出来る子供たちの笑顔って素晴らしいです。今日のニュースで東北の雪の壁とその地で生きる人々の姿が映し出されていました。人の叡智や生命力に胸を打たれます。今年も特に嬉しいクリスマス気分など皆無なので、やや暗く優美な美しい詩を読んだり、相変わらずロマン主義或いはロマン派の作品との相性が良いので、今日はフランスの詩人ポール・フォールの詩をアンドレ・カプレが歌曲にした抒情的かつ感動的なピアノ曲を♪

『小舟の別れ』 詩:ポール・フォール

今こそ城は眠りにつき
櫂はひときわ美しく
燕は金色の夕べを
空の青きわまるところに運ぶ
僕の眼には恋が溢れ、
城も空も映らない。
泣きぬれたまま僕は去く。
この櫂をはなれよう 今日かぎり!

★アンドレ・カプレ(André Caplet:1878年11月23日~1925年4月22日)はル・アーヴル生まれのフランスの作曲家で指揮者。カタカナ表記ではキャプレとも。この夭折の音楽家はドビュッシーの友人として知られ、ドビュッシーもまたカプレを非常に高く評価していたとされています。ドビュッシーの『聖セバスティアンの殉教』、『おもちゃ箱』、『月の光』、『子供の領分』などの編曲もしています。また、カプレは素晴らしいピアニストでもあり、残されたピアノ曲や歌曲の幾つかは小曲ながらもドビュッシーの美感の影響も伴いながら独創的な中世ポリフォニー音楽への探求の響きが聞こえるかのようでもあります。第一次世界大戦従軍中に毒ガスによって神経を冒され、胸膜炎を併発して早世したという不幸が惜しまれます。歌曲に於いては殊に難解な声のパート、朗唱法の指示が楽譜に細かく書かれているのだそうです。陰翳のあるリリシズムはやはり美しく詩的です。

Christopher Goldsackによるものがyoutubeにありましたので共有させて頂きます。
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by Claranomori | 2012-12-24 23:38 | 詩人・作家・画家・芸術家
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★ウージェーヌ・ドラクロワ(Eugene Delacroix:1798年4月26日~1863年8月13日)はフランスのシャラントン・サン・モーリス生まれの19世紀フランス・ロマン派を代表する画家。この『墓場の少女』或いは『墓場の孤児』と題された作品は1824年のもの。絵画鑑賞は10代からずっと好きな趣味のひとつなのですが、この絵はドラクロワの名画の中でもとりわけ印象強く今も脳裏に焼き付いている作品です。『墓場の孤児』として最初知りましたが『墓場の少女』という題の方が有名なのでしょうか。この少女の見つめる先に何があるのか。この強い視線。ドラクロワ自身も7歳の折に父親を、また16歳の折に母親を失っていること、この25歳頃のドラクロワは如何なる心境でこの少女を描いたのだろう。うら若き女性を墓場で見かけ、その寂しげな哀感をイメージして描かれたという。堅実な写実はドラクロワの基盤ながら、この少女の仰ぐ空への眼差しは寂しさを伴いながらも情念のような強さをも感じる。

われわれが描くべきものは事物それ自身ではなく、その事物のごときものである。
眼のためでなく心のために作り出すのである。

このようにドラクロワは語っている。優美な古典派も好きですが、やはり文学、政治、音楽、絵画という各表現の場でのロマン派たちの挑む姿、その心を感じることが好きなので、このドラクロワの言葉の意味は重要に想えます。


少数派ブログながら参加してみました♪
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by claranomori | 2012-03-06 11:49 | 絵画の中の少女・女性
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★フリードリヒ・フレーベル(Friedrich Fröbel:1782年4月21日~1852年6月21日)はドイツの教育者。幼稚園の創設者であり、生涯子供たちの教育に生きたお方。上の画は『小さな園丁』と題された、フレーベルの代表的な著作である『人間の教育』(1826年)の中の挿絵です。この絵が示唆するように、命を労わる心を育てるためにフレーベルは庭の教育的意味を重視した。ドイツ・ロマン主義的な観点からの思想でもあるとされる。フレーベルの「幼稚園」(Kindergarten)を特徴づける第一の教育原理は「庭」(garten)の原理であるという。

庭でさまざまな植物が―理性的で因果関係に明るい園丁の世話によって―それぞれのやり方で完成に向って、その本質にあった多様な方向に発達するように、同じ方法で、人間、少なくとも幼児は、彼の内的、根源的な本質に忠実に、そして同一の根源をもつ自然および生命と調和して・・・・・発達、教育、形成される。

引用: 著:フリードリヒ・フレーベル 幼稚園の教育原理 『人間の教育』 より

フレーベルのここで云う「庭」とは人工的な箱庭ではなく、力強い生命に溢れた雄大な自然そのものであり、「庭」は幼稚園の象徴であるばかりでなく、現実の欠かせぬ教育環境をも構成している。フレーベルはこの『人間の教育』に於いて、「子どもたちに生きよう」と親たちに語りかける。イエスの言葉である「天国は幼な子らのものである」や「幼な子のようになれ」を愛用し様々な意味が込められているが、とりわけ「子どもたちに生きよう」という言葉によって、フレーベルは「子供たちと一緒に生活しよう」あるいは、「子供たちから学ぼう」ということを強調している。この「子どもたちに生きよう」というフレーベルの言葉は19世紀のものながら、今日でもまったく古くはない言葉だと想います。私はただ幼い子供たちや少年少女たちを愛おしく想うがゆえに、どういう訳か教育者でもないのにフレーベルの難解な御本を読むことになった。そして、教育者として生きたフレーベルの思想に、私の大好きなロマン主義文学との関係も深いこともあり、美学思想にまで及びそうですし、さらに児童文学の世界にも繋がるのでとても興味深い御本であります。絵本や児童文学の良書を多数発行されている日本の出版社「フレーベル館」はこのフリードリヒ・フレーベルから名付けられた社名なのも納得です。
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by claranomori | 2012-02-27 09:16 | 詩人・作家・画家・芸術家
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★三島由紀夫(1925年(大正14年)1月14日~1970年(昭和45年)11月25日)享年45歳。今年の11月25日の三島由紀夫の命日に、私は稚拙ながら真面目に深く思考していた。それも三島由紀夫という美の殉職者と今年の日本の大災害、国難という天譴とも云うべき事態の中で、重大かつ尊厳なるものであるのに忘れ去られてゆくものたちが何と多いことだろうと...。

毎年11月25日になると、母は「今日は三島の命日だ」と云っていた。私に云うのでもなく、まるで独り言のように呟くのだった。三島文学ファンの母、ドストエフスキーやリルケの分厚い書物が両親の本棚にあったこと、私が10代から好んで読んできたドイツやフランスの作家たちの作品などとが、時間がかなり必要だったけれど、今、ようやく繋がろうとしているように感じているところ。人生は楽ではないことを前提にしなくては謳歌もできないと想う。また、「生」と同じくらい「死」が常に傍に在るということも。フランス・ロマン主義(ロマン派)、英国ヴィクトリア時代のラファエル前派の保守主義が美に昇華する様がたまらなく好き。これらの作家や画家、音楽家という芸術家が政治の世界に身を投じることが多々あった。三島由紀夫から学ぶべきことは多い私です。「美について」の最後に「現代に於ける美の政治に対する関係について、ゆっくり考えたい。」と書かれたのは1949年6月25日。まだ日本がGHQ(連合国軍総司令部)の占領下にあった昭和24年のこと。そんな時代のこと、あの大きな戦争の終戦の傷痕を伝える映画や文学が好きであるのと、ナチス占領下にあったパリの時代が描かれた映画や文学が好きであるのは、なんとなく私の気分に合うものゆえに。なぜだか、涙が溢れます。

十九世紀を以て唯美主義は終りを告げた。しかし蒔かれた種子は饒多である。ワイルドのジッドへの影響、シュテファン・ゲオルゲのリルケへの影響は、単純なものではない。

日本に於いて美は、人間主義の復活を意味せず、「生の否定」という宗教性を帯びるにいたる。

仏教的厭世観と美の結婚(これは江戸末期まで続いた)は、実は、宿命観と現世主義との微妙な結合ではないのか?

『三島由紀夫のフランス文学講座』 より

★追記です。
フランス・ロマン主義作家のフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンが政治的意味合いでの「保守主義」という言葉を使った最初のお方だと云われています。やはり、私の心が共鳴するものは変わりはしない。時代は移りゆくけれど、歴史や伝統の中から学ぶべきことはいつの時代にもあるのだと想います。私が死に至った後もなお、日本は日本として生き続けることの尊さを想うのです。
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by claranomori | 2011-12-29 22:19 | 想い・鑑賞・読書メモ
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★先日フリーペーパーに寄稿させて頂きました。タイトルは私の心のキーである「華麗なる美学」で、今回は80年代の音楽と映画について書きました。かなり文字数をカットしたのですが、12月初頭に発行されるそうですので、12/4のモーマスのライヴをメインとするイベント『MONEMENT』で配布させて頂けそうです。この日はVelvet Moonの小さなブースも予定しております。同日は『なんでもない日のお茶会』もございまして、スペシャル・ゲスト・ライヴはシモーヌ深雪さまです!私はお茶会の終了後、大急ぎで心斎橋に向かいDJなのでちょっとドキドキ♪

常日頃から心の核にある18世紀~19世紀のロマン主義、ポスト・ロマン主義、あるいはデカダン思想なるものに触れては考えさせられ続けているのですが、こじつけかもしれませんが、どうも今日の我が国日本の状況、社会との鬩ぎ合いの中での精神的不安のようなものが合致してしまうのです。デカダン思想は病的で悪徳のように揶揄されがちでもありますが、19世紀は18世紀後半の産業革命以後、英国を始め、ヨーロッパの文化が大きく変容する。文化と文明は共にしながらも異なるわけで、云わば文化と文明社会の拮抗していた(開始の)時代であり、その時代の作家が英国(アイルランドの作家ですが)ではオスカー・ワイルドであり、フランスではボードレールやユイスマンスの存在が大きく、共通する反ブルジョワ思想、反文明思想に時代も状況も当然異なる中で、妙な共鳴が私に光を投げかけて下さるのです。機械文明、物質的豊かさの果ての拝金主義は人間の心、美を愛でる心、文化を尊ぶ心を衰退させてしまう。書き終えた原稿の中でも、大好きなオスカー・ワイルド、及び、もう少し古き世代のロマン主義作家、テオフィル・ゴーティエの言葉を引用させて頂き、国難の日本に於いて守るべきもの、普遍なる美はまだ残されていると痛感している今日この頃です。ズバリと書けないことも多々あるのですが、今回の東日本大震災から8ヵ月を経て、強固になってゆく私の想いは歴史、温故知新、家族、絆、また言葉の尊さであり、同時に相手の見えぬ不安と憂慮でもあります。幼き頃からヨーロッパかぶれした子供でしたが、やはり伊達や酔狂も学びとなる。アメリカの素晴らしさもありますが、やはりヨーロッパの複雑怪奇な長い歴史は途轍もない学びの宝庫であると想うのです。機能主義、合理主義を優先し高度経済成長の日本で生まれ育ち今に至る。けれど、どうも息苦しいと感じながら...。何が私に人生謳歌させてくれるのか!と考えると、やはり"美しきもの"、"美"のお陰だと云える。お金に換算できない美の方が遥かに心の糧となり栄養となるのです。きれいごとと笑われて来たけれどやはり大切なのです!

「無用でなければ、何も美しくはない。有用なものはすべて醜い。」

このゴーティエの言葉はワイルド経由で知ったのですが、伝わる者には正にスローガンのような名言であると想う。言葉の深き処を探らなければ誤解されがちな言葉でもあるけれど、実に正論だと想う私です。例えば、身近なものではレコードのジャケット、美麗な書物の装幀、古き映画の細部に見える美術の素晴らしさ...私の生きて来た時代の中でさえ、やはり昭和と平成で大きく変容したと回顧できる。機械や技術の進歩で生活が豊かに便利になったのだろうけれど、子供の頃の風景の方が情緒に溢れ美しい。いつしか大人になり何か息苦しいと感じながら、時に精神的にも不安定になりながら、内臓も患いながら歳を重ねているけれど、出来るだけ大切にしたいと想うのは、無用だと蹴飛ばされそうな"美しきもの"だと心底想う。それは人それぞれ異なるけれど、少数派かもしれないけれど、私は日本が好きだから日本の美を感じて生きていたい。異国の素晴らしい文化に学びながら。ようやく、我が国日本を意識できるようになれた事、当たり前で認識の薄かった日本人であるということの尊さを大きな災害、犠牲の中で学び得たことは皮肉ですが、唯一の被爆国である日本が、やはり米国設計開発による原発で今も復旧復興ままならぬ状態であることに過敏に成らざるを得ない。もうそろそろ良いのではないだろうか...決して反米ではないけれど日本は日本であるのだから、と、長い歴史や伝統の中で生きている言葉を超えた日本の美を色々と考えていると心が落ち着くようなのです☆

※関西電力は今年の冬は10%節電だそうです。猛暑の節電も大変でしたが知恵を使うこと、工夫することも結構楽しいと想えます。今も電気が行き渡っていない東北の方々はもっともっと寒く厳しい日々を過ごされている。大阪ガスも値上げと伝え聞くけれど、体調を崩さないように何とか白い冬を心豊かに過ごしたいと想います。
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by claranomori | 2011-11-18 19:36 | 想い・鑑賞・読書メモ
b0106921_2191051.jpg★ジェラール・ド・ネルヴァル(Gérard de Nerval:1808年5月22日~1855年1月26日)の1854年の最晩年の作品『火の娘たち』。嗚呼!ネルヴァル!!フランス・ロマン派の奇才作家。大好きな作家と云うよりも深く深く私の心に沁み入り続ける詩人です。なので、綴るのはちょっと安易ではないので軽く。どうした訳か、16歳~17歳頃に出合った音楽と文学は私の中でいつまでも寄り添い合ってしまうようです。ネルヴァルというと、ブリジット・フォンテーヌのとりわけ70年前後作品、楽曲たちが絶妙なハーモニーを奏でるかのように響きます。ジェラール・ド・ネルヴァルは狂気の果てに死に至ったお方ですが、ニーチェも然り。発狂死というものがいったいどんな世界だろう...と考えます。凡人の私には到底分かりはしないけれど、ある種の聖域で神聖な純粋さをも感じてならないのです。人間の究極の境地の一つでもあるような。

何冊か読んでいるのですが、今日は『火の娘たち』の『シルヴィ』を。最初に読んだのは80年代でやはり新潮文庫でした。20数年ぶりに先日読み返したのですが、もの凄く感動しました!20数年の時の流れの中で、私も歳を重ね少々の人生の苛酷さを知ってしまった。けれど、人生は尊いものであることも知り得たつもりです。この先何が待ち受けているのか分からないけれど。幻視文学あるいは幻想文学と喩えることも可能ながら、当のネルヴァルご本人は現実と夢の世界を自由に彷徨しているので、読んでいて摩訶不思議なのです。夢幻的という言葉がとても似合うもので、一貫して漂い続ける叙情に涙しました。マルセル・プルーストの絶賛を受けたものの、19世紀後半には忘れ去られていたネルヴァル。20世紀になり、ようやく再評価されたのも、今だと何となく分かる気もします。時代背景的なものを少しは考慮しながら読むと、やはり途轍もない時代だったのだと。ネルヴァルは、実在の女優ジェニー・コロンに強く熱情を示し、叔父の財産総てを彼女を讃美するための雑誌「演劇界」の発行に蕩尽している。けれど、ジェニーとその後再会したのは一度だけ。それでも、ネルヴァルにとっての"永遠の女性"として生涯心の中で生き続けることに。そのジェニーの死の知らせの衝撃は大きくネルヴァルをさらなる夢の世界へと誘い、幾度かの発作、療養を経るがもう戻っては来れない。ネルヴァルにとって、現実というものは常に闘うものであったように想う。革命の狭間の少年時代、育ての親のような叔父の神秘主義の影響、早くから聡明で豊か過ぎる感性はやはり現実から夢の世界へという地獄を辿り、行き着いた果ては穏やかな"第二の人生"であったのだと。

『シルヴィ』『エミリイ』『ジェミイ』『オクタヴィ』『イシス』という女性名5つからなる『火の娘たち』(私が読んだものは『火の娘』 訳:中村真一郎 新潮文庫)のシルヴィとはオーレリアに続くもので、ネルヴァルの原初的な美しい想い出の土地、ヴァロワ地方の自然と遠い昔の幼な友達シルヴィ。その少女シルヴィへの愛が夢の恋人オーレリーへの連鎖という物語。もう論理など軽く超えたもので、ネルヴァルはロマン主義と象徴主義の作家だと痛感。記憶、過去、想い出の深い処から無意識的に精神を放浪させる形式。これはプルーストの『失われた時を求めて』の先駆的な作品であり、またアンドレ・ブルトンの『超現実主義宣言(シュルレアリスム宣言)』へと繋がるもの。20世紀後半になり、ボードレールと並ぶ詩人と云う評価に至るのは、やはり作品の中に流れる"詩"であり"歌"(古謡など)が美しく、正に夢と追憶の陰影からなるソネットのようです。やはり、私は歌の流れる、響く小説などがとても相性が良いようです。そして、想います。このような作家の作品はどんなに社会や科学が進歩しても解き明かされるものではないのだと。論理的よりも象徴的なるものの方が、私には必要であり大切な心の糧として空を舞うのです。

想うままに綴っているので取り留めなく、まだまだ続きそうです。フランス・ロマン派の作家、テオフィル・ゴーティエとはシャルルマーニュのリセの同級でもあり親交の深かったお方であります。フランスに限らず、やはり19世紀に夢を馳せることが多く、尽きない学びの源泉のようです。
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by Claranomori | 2011-11-03 08:08 | 19世紀★憂愁のロマンと美
★3月16日に天皇陛下のビデオ・メッセージが届けられた。東日本関東大震災の被災者や国民へのお言葉。初めてのことばかり続くこの国難。この天皇陛下のお優しいお言葉に涙いたしました。報じられるとは思っていたけれどビデオでという異例さ。同じ「ことば」を語っても人様々。なぜ、天皇陛下のお言葉は優しく響くのだろう。心からのお言葉で演説とは縁遠い。

話すことば、語ることば、歌うことば、読むことば、心のことば...私にとって響くことばはすべて楽の調べである。声を出さなくても目で語ることばもあれば、表情で語ることも。「詩」は「し」であり「うた」である。そうした「詩」というものが私にはとても相性が良い。なのでロマン派の詩人たちを愛好する所以かもしれないし、聴く音楽もやはり詩人たちが多いような。

十歳かそこらだったろうか
わたしの心がはじめて
ひびきよく並んだことばの魅力にはっきりと
目覚めたのは、わたしはことばを
そのものとしてきれいだと思った
情熱であり 力であると思った
喜びや はなやかさ そして愛を
言うために選ばれたことばが
わたしにはうれしかった

ウィリアム・ワーズワース 『プレリュード』より

上記の詩は、そんな想いが過ったもので、今の気分で選んだものです。18世紀のロマン派、英国桂冠詩人ウィリアム・ワーズワースの自伝的長詩『プレリュード』より、幼年期を回想して綴った詩です☆
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by claranomori | 2011-03-19 08:43 | 詩人・作家・画家・芸術家
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★『ばらになった王子』あるいは『バラの花びら姫』というクレメンス・ブレンターノ(Clemens Brentano:1778年9月9日~1842年7月28日)の19世紀の作品。クレメンス・ブレンターノはドイツ・ロマン派後期の詩人であり童話作家でもある。『ばらになった王子』はリスベート・ツヴェルガー(Lisbeth Zwerger:1954年、オーストリア・ウィーン生まれ)が絵を担当して、絵本として発売されたもの。初刊は1978年で、日本では1983年に冨山房より池田香代子訳で発売されました。

バラをこよなく愛し、美しく長い髪を大切にしているお姫様ロザリーナ。その妹をたいそう愛し可愛がっている優しき兄ロスミタール公爵。イムマーウントエーヴィッヒ公子を妹ロザリーナ公女に紹介する。けれど結婚を断ってしまう。イムマーウントエーヴィッヒ公子は魔法使いの伯母に相談する。ロザリーナ公女のために、バラに姿を変えた公子(ばらになった王子)の優しい気持ちに胸打たれる。バラの花びらを食べたロザリーナ公女は女の子を身籠る。その女の子はローゼンブレットヘン(バラの花びら)と名付けられる。ロザリーナはこのバラの花びら姫をたいそう可愛がっていたけれど、魔法使いの呪いにより、バラの花びら姫の頭に櫛がささって死んでしまう。ロザリーナはガラスの柩にバラの花びら姫を入れ、哀しみにくれた数年間を過ごす。死期の迫ったロザリーナは兄に、バラの花びら姫が入ったガラスの柩のある部屋の鍵を渡す。「絶対に開けないでください。」と・・・。

『バラの花びら姫』では、ローゼンブレットヘンは美しい14歳の少女に箱ごと成長していた。魔法使いによって、このお姫様は長い年月の間、生きたまま眠らされていたのである。けれど、公爵が留守の折に公爵夫人(美しいが心の良くない夫人)はその部屋を開けてしまう。その生きた美しいお姫様の存在は夫人を憤らせた。酷い仕打ちをし長い髪も切られみすぼらしい姿の少女は奴隷用の仕事着を着せられていた。最後はローゼンブレットヘンは高貴な王子さまのお妃となり、持参金としてロスミタール公国全土を与えられた。イムマーウントエーヴィッヒのバラの木も再び花をつけ、バラが甘く香るある夜のこと、ローゼンブレットヘンが夫君と窓際に寄ると、母と腰元たちがバラの木を跳び、イムマーウントエーヴィッヒの姿も見えた。

「お父様お母様!神の祝福がありますように!」とローゼンブレットヘンは大きな声で言った。すると窓の下の両親たちからも、大きな声が返ってきた。「ああ!いとしい子供たち!神の祝福がありますように!」と両親たちは空に消えてゆく。

後に、南瓜のような揺り籠を作らせ、可愛い公子を天から授けられる。という「眠り姫」や「白雪姫」のグリム童話のようなメルヒェン。大きな意味での「ファンタジー」や「メルヒェン」が大好きです!
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★この『ばらになった王子』あるいは『バラの花びら姫』のお話は、イタリアの詩人であるジャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile:1575年~1632年)の『ペンタメローネ(五日物語)』という作品をクレメンス・ブレンターノが改作したものということです。その他にもブレンターノ童話の名作『ミルテの精』、『ヴィッツェンシュルツェルの話』、『のみの男爵』もこのバジーレの『ペンタメローネ』の中からの改作。ブレンターノの言葉遊びとユーモアは正しくファンタジー!突拍子もない事柄が楽しく軽やかに綴られてゆく。

このバラになった王子の名はイムマーウントエーヴィッヒ公子。イムマーウントエーヴィッヒ「immer und ewig」とは「いついつまでも」という意味が託されています。

『ばらになった王子』は、ドイツ語では「Das Marchen Von Rosenblattchen」、英語では「The Legend of Rosepetal」と題されています。『バラの花びら姫』版は1980年発行のメルヘン文庫のものです。現在は『ばらになった王子』のタイトルが通常のようですが、私は『バラの花びら姫』としてついつい浮かぶのです☆


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by claranomori | 2011-02-27 22:04 | 童話・絵本・挿絵画家
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愛は惜しみなく与えられ、
別れはもはやない。
まったき生は、さながら
無限の大海のように波うつ。
ただ一夜の歓喜―
永遠の詩―
そしてわれらすべての太陽は
神の顔なのだ。

ノヴァーリス 『夜の讃歌』より

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by claranomori | 2011-01-26 18:30 | 歎賞★愛するが故に沈黙す