あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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★先日フリーペーパーに寄稿させて頂きました。タイトルは私の心のキーである「華麗なる美学」で、今回は80年代の音楽と映画について書きました。かなり文字数をカットしたのですが、12月初頭に発行されるそうですので、12/4のモーマスのライヴをメインとするイベント『MONEMENT』で配布させて頂けそうです。この日はVelvet Moonの小さなブースも予定しております。同日は『なんでもない日のお茶会』もございまして、スペシャル・ゲスト・ライヴはシモーヌ深雪さまです!私はお茶会の終了後、大急ぎで心斎橋に向かいDJなのでちょっとドキドキ♪

常日頃から心の核にある18世紀~19世紀のロマン主義、ポスト・ロマン主義、あるいはデカダン思想なるものに触れては考えさせられ続けているのですが、こじつけかもしれませんが、どうも今日の我が国日本の状況、社会との鬩ぎ合いの中での精神的不安のようなものが合致してしまうのです。デカダン思想は病的で悪徳のように揶揄されがちでもありますが、19世紀は18世紀後半の産業革命以後、英国を始め、ヨーロッパの文化が大きく変容する。文化と文明は共にしながらも異なるわけで、云わば文化と文明社会の拮抗していた(開始の)時代であり、その時代の作家が英国(アイルランドの作家ですが)ではオスカー・ワイルドであり、フランスではボードレールやユイスマンスの存在が大きく、共通する反ブルジョワ思想、反文明思想に時代も状況も当然異なる中で、妙な共鳴が私に光を投げかけて下さるのです。機械文明、物質的豊かさの果ての拝金主義は人間の心、美を愛でる心、文化を尊ぶ心を衰退させてしまう。書き終えた原稿の中でも、大好きなオスカー・ワイルド、及び、もう少し古き世代のロマン主義作家、テオフィル・ゴーティエの言葉を引用させて頂き、国難の日本に於いて守るべきもの、普遍なる美はまだ残されていると痛感している今日この頃です。ズバリと書けないことも多々あるのですが、今回の東日本大震災から8ヵ月を経て、強固になってゆく私の想いは歴史、温故知新、家族、絆、また言葉の尊さであり、同時に相手の見えぬ不安と憂慮でもあります。幼き頃からヨーロッパかぶれした子供でしたが、やはり伊達や酔狂も学びとなる。アメリカの素晴らしさもありますが、やはりヨーロッパの複雑怪奇な長い歴史は途轍もない学びの宝庫であると想うのです。機能主義、合理主義を優先し高度経済成長の日本で生まれ育ち今に至る。けれど、どうも息苦しいと感じながら...。何が私に人生謳歌させてくれるのか!と考えると、やはり"美しきもの"、"美"のお陰だと云える。お金に換算できない美の方が遥かに心の糧となり栄養となるのです。きれいごとと笑われて来たけれどやはり大切なのです!

「無用でなければ、何も美しくはない。有用なものはすべて醜い。」

このゴーティエの言葉はワイルド経由で知ったのですが、伝わる者には正にスローガンのような名言であると想う。言葉の深き処を探らなければ誤解されがちな言葉でもあるけれど、実に正論だと想う私です。例えば、身近なものではレコードのジャケット、美麗な書物の装幀、古き映画の細部に見える美術の素晴らしさ...私の生きて来た時代の中でさえ、やはり昭和と平成で大きく変容したと回顧できる。機械や技術の進歩で生活が豊かに便利になったのだろうけれど、子供の頃の風景の方が情緒に溢れ美しい。いつしか大人になり何か息苦しいと感じながら、時に精神的にも不安定になりながら、内臓も患いながら歳を重ねているけれど、出来るだけ大切にしたいと想うのは、無用だと蹴飛ばされそうな"美しきもの"だと心底想う。それは人それぞれ異なるけれど、少数派かもしれないけれど、私は日本が好きだから日本の美を感じて生きていたい。異国の素晴らしい文化に学びながら。ようやく、我が国日本を意識できるようになれた事、当たり前で認識の薄かった日本人であるということの尊さを大きな災害、犠牲の中で学び得たことは皮肉ですが、唯一の被爆国である日本が、やはり米国設計開発による原発で今も復旧復興ままならぬ状態であることに過敏に成らざるを得ない。もうそろそろ良いのではないだろうか...決して反米ではないけれど日本は日本であるのだから、と、長い歴史や伝統の中で生きている言葉を超えた日本の美を色々と考えていると心が落ち着くようなのです☆

※関西電力は今年の冬は10%節電だそうです。猛暑の節電も大変でしたが知恵を使うこと、工夫することも結構楽しいと想えます。今も電気が行き渡っていない東北の方々はもっともっと寒く厳しい日々を過ごされている。大阪ガスも値上げと伝え聞くけれど、体調を崩さないように何とか白い冬を心豊かに過ごしたいと想います。
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by claranomori | 2011-11-18 19:36 | 想い・鑑賞・読書メモ
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★以前『少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ:NADINE NORTIER) ロベール・ブレッソン監督』として綴った『少女ムシェット』を再びというか追記です。重く悲惨で残酷な僅か14歳の生。ロベール・ブレッソン監督が『田舎司祭の日記』の原作者でもあるジョルジュ・ベルナノスの原作を今作でも映画化したもの。14歳の少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ)はどうしようもなく救いがない。大体名前からして・・・。どうしてここまで!という程。貧困や苦悩なら誰にも大なり小なりある。自分だけが世界で一番不幸者のように思い込むこともあるだろうけれど、探せば救いは見つかることが多いと私は信じている。でも、このムシェットに関してはもう孤独で死しか救いがなかったのだろう...と思えてしまう。飲んだくれの父、病床の母、まだ小さな乳離れしていない赤ん坊の弟、そして兄と貧しい生活を送っている。父はまったく働く気持ちもなく息子にお酒の密売をさせている。何もしないこの父はアル中で凶暴でムシェットに対して信じられないほどの八つ当たりをする。そんな環境(家庭)から学校へ通うけれど、これまた、学校でも級友や教師からさえ嘲笑いの対象なのだ(もう憤りとやるせなさで痛い!)。お友達もいない孤独なムシェットが、移動遊園地のバンピング・カーで遊ぶシーンだけは楽しそうで好きなシーン。後ろから男の子がバンバンと車をぶつけてくるのだけれど、相手にしてもらっていることに喜びを感じているのだ、いじらしい少女の心。でも、まだまだ不幸は襲ってくる。雨の日の森で密猟をしている男性アルセーヌは森番を殺したと言い、そのアリバイ工作をムシェットに頼む。てんかん持ちで発作を起こしたアルセーヌが落ち着くと、その場にいるムシェットを奪ってしまう...。怖かっただろう...とても!逃げ出すように家に戻り母にだけは伝えたかったけれど、弟にミルクを飲ませなければならず、父も兄もおらず、母は死んでしまう。もう、これでもかというくらいの痛めつけである、悪意の大人たちや社会による。そして、老婆に白いモスリンのお洋服を貰い、崖(土砂)の上から下の池に向かってそのモスリンを体に合わせて転がってみる。そして、また上まで上り、今度は加速をつけて転がってみる。そして、再度さらに加速をつけて転がりドボン...と池の音と白いモスリンが浮かんでいる。ムシェットの死の描き方まで、冷徹な眼差しでこの冷たさはヒリヒリと突き刺さり胸が痛い。台詞もほとんどないモノクロームな映像。音と冷厳な視線の徹し方。
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『少女ムシェット』は、人が故意に眼をそむけようとしている残酷さと悲惨さを暴露しています。残酷さはいたるところにあります。戦争、拷問、強制収容所、老人を殺害する若い男女などに見られます。オスカー・ワイルドは、「普通の残酷さは単純に愚かさから生じています。それはイマジネーションが完全に欠乏しているからです。」というような意味の事を述べています。確かにイマジネーションの欠乏が残酷さにつながります。第二次世界大戦が勃発した頃、私は軍の宿営地で1人の兵士が家兎の皮を剥いでいるいるのを見て、ギクッとさせられたことがありました。 

ロベール・ブレッソン

「残酷さと悲惨さの暴露」とブレッソン監督のお言葉。野兎が狩られるシーンなどもそういう残酷さのひとつのようだし、ただ一人だけ優しい食料品店の女主人がコーヒーとパンをムシェットに与えてくれる。ムシェットがカップをひっくり返してしまった途端!掌を返したように罵声を浴びせるシーンも怖かった...こういう人いるように思う。愚劣な大人たちや社会の犠牲者のような14歳の少女の死。これはある意味、殉職者のようにも思える。孤高の映像詩人のロベール・ブレッソンの映画は重く厳格なものが多いけれど、私はとても好き。観なくてはならない映画だと思ってしまう。ベルナルド・ベルトルッチ監督とジャン=リュック・ゴダール監督はこの映画を絶賛していたそうだ。ゴダールは『ウィークエンド』でジャン=クロード・ギルベールを起用している。ベルトルッチは『ドリーマーズ』で引用している。イングマール・ベルイマン監督は「さっぱり、分からん。最悪だ。」と仰ったという。賛否両論の作品であり、全く商業的な世界から遠くにいる(ブレッソン監督というお方がそうなのだろうけれど)。古い作品をこうして私は再見してはなにかしら考えることができる。考える映画は本来好きなのだと思う。映画は最良の娯楽だという前提で☆
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by claranomori | 2011-08-13 15:55 | 文学と映画★文芸・史劇
★今日もまた怖い夢をみた。夢の中で頓服を飲む自分の姿があった。ニュースや被災者の方々のメッセージから考えさせられることはあまりにも多い。1週間を経た頃だっただろうか...ある少女の表情が焼きついて離れない。津波に流され全壊したお家にご家族の方と向かい、想い出たちを持ち帰ろうとされていたようだった。ご両親と小さな弟さんが一緒だった。その少女は俯き青ざめていたように感じた。少女は10歳前後ではないだろうかと思う。さらに幼い少年は笑顔を見せてくれていた。一言に「子供」と言っても様々な性格があり環境も異なる。こんな悲劇の中でさえ、すべて公平ではない。私がその少女の姿に何かシンパシーを感じてならないのは何故だろうと考えてしまう。きっと、学校ではお友達と一緒で笑顔の愛らしい少女だろう。また、違うニュースの映像では、流れ着いたがれきの中にランドセルがあった。ランドセルには私もとても思い出があるので反応してしまう。6年間の小学校生活を共にした愛しき赤いランドセルだった。

私の幼い日の風景が巡る。確か小学二年生だったと思う。国語の時間にオスカー・ワイルドの『しあわせの王子』のお話を先生が読んでくださった。私は授業中にお話を聞き泣いてしまうことが幾度かあった。最も古い記憶は幼稚園で、多分その次がこの『しあわせの王子』。オスカー・ワイルドはとても大好きな作家なので、幾度か読み返すのだけれど、年齢によってこの有名な童話の魅力も異なるような。自分で購入したものは、『幸福な王子』と題されているワイルド童話の名作が詰まったもの。以前に『王女の誕生日』のことを綴ったけれど、やはり、どのお話も好き!
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オスカー・ワイルドの童話ではもっとも有名な作品なので読まれたお方も多いと思う。私が幼き日に感動した心と今では妙な妄想と共に作品は深まるばかり。けれど、美しい王子の像の、その体の一部である宝石や金箔をツバメに頼み、貧しい人々に与えるという崇高な心。また、エジプトへ向かう予定だったツバメは遂には寒い季節となり死に至る。輝く王子の像はすっかり灰色の像、その王子の足元にツバメの亡骸が...。もう美しくはない王子の像は見捨てられ、広場の像は市長の像に変えられる。像を炉で溶かすけれど、壊れた鉛の心臓だけは溶けない。議員や鋳物工場の人たちはその鉛をツバメの死骸を捨てた塵山に投げ捨てる。けれど、神さまは天使に「町中で一番尊いものをふたつ持ってきなさい」と言い、天使は鉛の心臓と死んだツバメを持ち帰り、天国の神さまの庭で彼らは共に。

「わたしが行くのはエジプトではありません。死の家に行くのです。死は眠りの兄弟です。そうじゃありませんか?」

そしてツバメは幸福な王子のくちびるにキスをし王子の足元へ落ちて死んでしまう。その瞬間に、何かが壊れたような、ぴしりという奇妙な物音が像の内側で響く。それは、鉛の心臓が割れた音であったという場面に心奮える感動を覚えたのは、大人になって読み返した折のこと。私は古典と呼ばれる文学に魅了され続けていて、好きな作品を読み返すことも多い。殊に19世紀辺りまでの作品。なので、最近の作品に疎い。けれど、本を読むという中で得られる、なんとも言えない心の彷徨や時間軸や空間を浮遊するかのような、あのトキメキ!温故知新という言葉も大好きなので、どうしても古い時代に心が赴くようなのです。

※アイルランド生まれのオスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の童話集、『幸福な王子』の初刊は1888年。19世紀末に残され今も読み継がれる作品。上の絵は同じく19世紀の英国に生きたウォルター・クレイン(Walter Crane)による挿絵です。
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by claranomori | 2011-03-31 09:51 | 童話・絵本・挿絵画家
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文豪にして英国文学史上の異端ともされる大好きなオスカー・ワイルド。その没後100年となる2000年に向け、ブライアン・ギルバート監督によって映画化された伝記作品。この映画のことだけで、思い浮かべるだけで幾つか記事が書けそうな程のミーハーな私。また、追々追記したいと想うけれど大まかに。監督も好きだけれど、脚本を手掛けているのはジュリアン・ミッチェルなので、これまた愛すべき一作『アナザー・カントリー』を手掛けたお方!映像からお衣装デザインと19世紀末の英国ロンドン、アール・ヌーヴォーな世界。オスカー・ワイルドに扮するのはスティーヴン・フライ。そして、ワイルドの最初の同性愛の恋人といわれるロバート・ロスはマイケル・シーン。そして、文壇で絶頂期の中のワイルドが獄中へと破滅に向かう(それもまた、オスカー・ワイルドの美であろう!)要因となる運命の出会い!オックスフォード大学に通う美少年アルフレッド・ダグラス卿こと”ボジー(坊や)”を演じるのはまだ大ブレイク前のジュード・ロウ、そして、敬愛してやまぬ名女優のヴァネッサ・レッドグレイヴ!...その他、英国屈指の演技陣の大競演!!と一人で大喜びしてしまう。そうそう、まだまだブレイク前のオーランド・ブルームも端役で出演している(これは後に気付いた)。
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此処ではやはり!美少年ボジーを。ジュード・ロウは美形ながらあまり色男役の少ない(選ばない)お方に想う。現在ではハリウッド映画でも引っ張りだこのスターで今も素敵だけれど、この頃の美しさにはうっとりするものがある。裕福な貴族で才能豊かで美貌を兼ね備えたボジーに心を奪われてしまったワイルド。ボジーの甘えるような仕草やあの唇(ジュード・ロウの映像が浮かび実在のボジーと融合して唯美な世界に耽りながら綴っている)。同性愛がまだ罪悪であり、英国では一大スキャンダル!ワイルドの享楽的生活はついには男色裁判となり、同性愛の罪で2年の刑を命じられる...。
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オスカー・ワイルド/WILDE
1997年・イギリス映画
監督:ブライアン・ギルバート 脚本:ジュリアン・ミッチェル 撮影:マーティン・フューラー 音楽:デビー・ワイズマン 美術:マリア・ジャコヴィック 衣装デザイン:ニック・イード 出演:スティーヴン・フライ、ジュード・ロウ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジェニファー・エイル(ジェニファー・イール)、マイケル・シーン、ゾーイ・ワナメイカー、トム・ウィルキンソン、ジェマ・ジョーンズ、オーランド・ブルーム


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by claranomori | 2008-08-17 23:32 | 銀幕の美少年・少年映画
★私の一等大好きな作家であるオスカー・ワイルドの作品や生涯、戯曲の映画化など可能な限り関連したものは反応せずにはいられない。歳を重ねる中でいつの間にか一等...という存在になっているようだ。ちょっと、古い想い出ながら、私は子供の頃から涙腺の非常に脆い子供で、いくじなしとも言えるけれど、感動し易いとも言える。同じように笑うことも多く、”ないたカラスがもう笑うた”と父にからかわれたりしていた。大人になった今もそんな性格はあまり変わりはないようだ。最も幼い記憶(母に読んで聞かせてもらったもの以外で)。幼稚園の先生が紙芝居で『バンビ』のお話をみんなに聞かせてくださった。教室に何十人かやや後方に座って聞き入っているうちに涙が溢れてきて先生を困られせてしまったことがある。後でお優しく先生は頭を撫でてくださったけれど、どこか体調が悪くなったのかと心配されたようだった。遠いのに母まで呼ばれた始末...お父さん鹿が決闘するシーンの絵やその時の恐怖と尊厳さ、深い愛を想うだけで今も泣いてしまう。その次の記憶は小学2年生頃の国語の時間。オスカー・ワイルドの『幸福な王子』が教科書に載っていた。ほとんど、同じ頃、それは社会の時間か国語の時間かははっきりしないけれど、担任の先生が『八月がくるたびに』というご本を読んでくださった。それが最初に知った日本に原爆が投下された戦争の悲劇に関するご本だった。そして、母が小学生用の児童文学全集や偉人物語を買ってくれたものを好きな作品は幾度も、あまり好きでないのものはパラパラと読んでいた。そんな子供時代の私を想い出すことが再読で安易に出来て愉快でもある。
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オスカー・ワイルドの作品はどれも好きだけれど、最初の出会いが児童文学だったこともあり、先ずはそんな中で極めて大好きな作品のことを。『幸福な王子』の他にもうひとつ『柘榴(ざくろ)の家』という童話集がある。その中のひとつに『王女の誕生日』(1889年3月、「パリ・イリュストレ」が初出)というベラスケスの絵の時代を借りてきたような物語。

スペインの王女(インファンタ)の12歳のお誕生日。豪奢な装飾に彩られた大きなお屋敷やそこに集まる人々の豪華絢爛な衣装や宝石などがまばゆいばかりである。そんな中に、初めてそのお屋敷にやって来て踊りを披露する侏儒(こびと)。曲がった脚でよたよた歩きながら、不格好な頭を振り入ってきた侏儒を子供たちも王女も大笑いした。侏儒はと言えば、子供たちが笑うと自分までも楽しくなり笑い、踊ったり、おどけたりしている。王女の心をすっかりとらえていた。髪に付けていた白い薔薇を半ば冗談気分で王女は侏儒に投げつけた。侏儒は王女さまから白い薔薇を頂き天にも舞う喜び。王女さまに好かれているのだと思い込んでいる。わがままな王女さまはもう一度侏儒の踊りを見たいと招待する。

その幾つもある広間をそろりと歩いてゆく侏儒。真っ暗な部屋に行き着き、不可思議な光景を目にする。ある小さな人影がじっとこちらを見ている。侏儒の心臓は震え叫び声を上げる。その化け物は侏儒の動きをしっかり模倣するではないか!なんだろう?といっときは考えた侏儒にもようやく真相がわかりかけると、狂おしいような絶望の叫びを上げすすり泣きながら床に倒れてしまった。不格好なせむしで、見るも忌まわしい奇怪なあいつは自分だった。ほかならぬこの自分があの化け物だったのだ。子供たちが嘲笑っていたのはこの自分だったのだ。愛してくれていると思っていた王女さまも、自分の醜さを嘲り、ねじれた手足を冷やかしていただけなのだ。そんな自分の姿を知る鏡などの存在しない森で小鳥たちと楽しく過ごしていた侏儒。そして、なぜ父親は、自分を殺してくれなかったのだろうか?と熱い涙が頬を伝い、白い薔薇の花をむしって空中に撒き散らし、床に腹ばい、うめきながら横たわってしまった。そこへ王女さまが開いた扉から仲間と一緒に入ってきた。また踊ってくれるように頼むけれど、侏儒はすっかり動かなくなってしまった。不機嫌になった王女は”侏儒を起こして、あたしのために踊れとおっしゃってくださいな”と伯父ドン・ペドロに言う。しかし、動かない侏儒の心臓に侍従が手を当てると、肩をすくめ立ち上がり、王女にうやうやしく一礼して言った。”わがうるわしき王女さま、王女さまのおもしろい侏儒は、もう二度と、踊りはいたしませぬ。残念でございます。これくらい醜ければ、王さまをお笑わせることもできましたろうものを。」と侏儒の心臓が破れたことを告げた。すると、王女は顔をしかめ、あでやかな薔薇の花びらに似たくちびるを、美しい軽蔑でゆがめ、”これからさき、あたしのところへ遊びに来るものは、心臓のないものにしてね”と叫び、庭へ走り出て行った。


最後の王女の非情な台詞と心臓の破れてしまった侏儒。どちらも罪ではなく、咎めることは出来ない幼い子供たちの心。でも、純粋な侏儒の繊細で柔和な心とその壮絶で残酷な嘆きと叫びの中での死を想うといたたまれない。
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by claranomori | 2008-08-16 21:37 | 童話・絵本・挿絵画家
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いかにも不完全な、不完壁なわたしではあるが、それでもこんなわたしからなお得るべき多くのものをもつかもしれない。きみは人生のよろこびと芸術のよろこびを学ぼうとしてわたしのもとへ来た。おそらくわたしは、なにかもっとずっとすばらしいもの、悲哀と、それの美との意味をきみに教えるため選ばれたであろう。

きみの愛する友なる オスカー・ワイルド


※外国の作家で一等好きなオスカー・ワイルド!作品や生涯、唯美主義者としての美的感覚...舞台や映画に今も題材とされる偉大な戯曲・作家のおひとり。追々、追記してゆきます。これは、2007年4月30日に掲載したものですが此方に移行いたしました。
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by claranomori | 2007-04-30 15:16 | 19世紀★憂愁のロマンと美