あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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<   2009年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

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★私は映画が好きなお陰で多くのことを教えて頂いたり考えさせられたり、きっと限りなくいつまでもそんな日々だろう。第二次世界大戦での日本の敗北、焼け野原になり物資もなく困窮に陥った時代。たった60余年前のこと。その当時を生きてこられた方々、家族に犠牲者を持つ方々、恩師や友、恋人を失った方々も今を生きておられる。「昭和」と云ってもこうした戦争の時代もあれば、バブルな時代もある。私は暢気にバブルをバブルと当時感じることさえ出きず、のうのうと生きてきた戦争を知らない子供。「沖縄戦」という史実を知らずにいた。何故、米軍が沖縄に駐屯することになったのか、その後の返還に至る流れをようやく把握(おおまかにだけれど)出来るようになった。それはやはり映画からのこと。同名の原作を映画化した今井正監督による1982年の『ひめゆりの塔』の衝撃が大きい。まだ10代の女子生徒たちが従軍しなくてはならないなんて!

乙女たちよ 知っていたのか 青春の砂時計に残された 
はかない いのちを・・・・・

劇中、明るく愛らしい笑顔の少女たち、みんなで合唱する儚き輝く刻が今も浮かぶ。まだお若い頃の古手川祐子さんが特に印象強く残っている。また、宮城先生役の栗原小巻さんのお美しさと凛々しさ。師を敬い慕う美しき少女たちと身を持って接する尊き姿の先生たち。美しい!けれど、史実が悲劇なので映画化だからと云ってハッピーエンドで終えることなどできない。内容は脚色されているだろうけれど、私は「ひめゆり」と聞くと反応してしまう。先生と生徒、227名がこの戦争で亡くなられている。これから、教師への道、また恋する季節の思春期の少女たち。夢と希望はそれぞれにあったはずなのに。「青春」という短い刻を戦争という狂騒の中に身を投じることになった運命。生き残られたお方もこの悲劇は心の傷跡として消えることはないだろう。そして、徴兵され兵役を担う運命になった方々も。この青年兵士たちの様子は、1968年の舛田利雄監督による映画『あゝひめゆりの塔』で考えさせられたように想う。吉永小百合さんと浜田光夫さんの青春コンビだった。吉永小百合さんの妹的な存在だったのではないだろうか、和泉雅子さんもまだお若く可愛いかった。

熱心な「サユリスト」であった母の姿が吉永小百合さんの出演されている映画を観るとどうしても浮かぶ。私はもっと後の世代だけれど、子供の頃から栗原小巻さんが好きだったので、もう少し早く生まれていたなら「コマキスト」と呼ばれていただろうか。宮城先生は最後は目が見えなくなってしまう。爆撃の連続の毎日で気がふれてしまう少女たち。負傷して壕から脱出できず死に至ってしまったり、解放後も米軍に引き渡されることを拒み手榴弾で自らの命を絶ってしまった少女たち。「ひめゆりの少女たち」のことを知って良かった。もっと学びたいとも想う☆

●“ひめゆり”の由来●
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校には、それぞれ校友会誌があり、一高女は「乙姫」、師範は「白百合」と名づけられていました。両校が併置された際、校友会誌もひとつになり、両方の名前を合わせて「姫百合」と名づけられました。ひらがなで「ひめゆり」と使うようになったのは戦後です。「ひめゆり平和祈念資料館」より。
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by claranomori | 2009-11-29 02:50 | 銀幕の少女たち・少女映画
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★蕗谷虹児(明治31年12月2日~昭和54年5月6日)は日本の抒情画を代表するお方のおひとり(「抒情画」という言葉を作ったお方でもあるそうだ)。最初は晩年頃の絵で知り魅せられてしまった。関するものを少しずつ鑑賞したり読んだりしている中で、その80年の生涯の時代によって画風も異なり、さらに少女を描くあの優しくも儚げな世界がたまらなく好きになっている私が居ると気付いた。蕗谷虹児は美しい母を12歳の折に亡くしている(母は27歳という若さでの死であった)。そんな少年時代の母に対する憧憬が作品から感じられる。有名な歌『花嫁人形』の作詞も蕗谷虹児である。渡仏時期に曲がつけられ話題になってしまい困惑されたのだとも。子供時代に母を亡くし貧しさ故に父に丁稚奉公に出されてもいる。優美な画や文の中には苛酷な人生体験や様々な思いが込められている。

その父を 戦地にやりて あさ夕の 牛乳配りする をとめあはれ
 
この童画と共に女流歌人の若山喜志子(若山牧水の妻)の歌と解説が載っている。美しいお話で心洗われるもの。朝早くに門を開けにゆくと少女が駆け足で牛乳配達している姿に出会う。あまりの可愛らしさに言葉をかけその理由を聞いてみると、この少女のお父さんが出征したのでお兄さんとふたりでお母さんを助け、家業の牛乳配りをしていると。そして、その健気さにすっかり感心してしまい翌日から朝夕一本ずつ配達を頼み、幾分かでもそのお家の人々を助けてあげることにしたのだという内容が記されている。1938年とあるので日中戦争の頃のこと。戦地へ向かった人々と残された家族。そして、失われてゆく人の心のあたたかさを想う♪


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by claranomori | 2009-11-24 07:26 | 愛の花束・日本の抒情
★時折思い出す。今はもうご結婚され母親になっているだろう6年間親交のあったお友達のことを。中学と高校の6年間が一緒だった。中学になると違う小学校からもやって来る、そんな中で部活も一緒で仲良くなっていた。けれど、同じクラスになったのは最後の一年、高校三年生の時だけ。同い年なのにどこか大人っぽいクール・ビューティーな少女だった。最終的には同じくらいの身長になったけれど、私は身長が伸びるのが遅くて中学の時は前の方に居た。彼女は後ろの方。もっともお話するのはやはり部活の時間。私達は陸上部で彼女は主に跳躍の専門。私は短距離とハードル。

そうそう!「長距離ランナーの孤独」ではないけれど、陸上部って孤独だといつも感じていた。自己の記録が更新されている期間は短いけれど、その儚き時間を私は太陽光線が苦手なのに夏休みも練習していた。楽しかったのだ。真夏の想い出はそばかすが一気に顔中に増えたこと。みんなのように綺麗に黒くなれず、いつも真っ赤な顔で鼻先の皮膚が醜いと鏡を見ては悲しくなっていたこと。髪も日焼でさらに赤茶色になっていた。でも、日曜日は大会があればみんなで自転車で遠出した。帰りには美味しいコロッケ屋さんに行ったり。その女の子とは400メートル・リレーが同じだった。陸上で唯一のチーム競技。チームでダントツに早い凄い人がいたので彼女が第四走者と決まっていた。その他の三人はその都度記録(タイム)により決定された。私は何故かカーブ(第一走者か第三走者)のタイムが良かったみたいでいつの間にか第一走者と決まっていた。試合の前日はドキドキしてほとんど不眠だった。責任重大なのだ、第一走者って。フライングするともうアウトだし、最後の走者までに少しでもタイムを良くしてバトンを渡してゆく。バトンの受け渡しにタイムのロスが生じるのでその練習も幾度もした。私の個人の競技のどれよりもそのリレーが終るまで緊張していた。一位でメダルを頂いた時の感覚があまり思い出せない。中学の時に大会新記録を4人で出したことがある(すぐに更新されたけれど)。その翌日の朝礼で校長先生が私達の名を挙げ誉めてくださったのだけれど、朝礼は長いとすぐに貧血になり保健室へ向かう私。その顔ぶれは毎回大体同じ。私は運動部の体質ではなかったらしい。

その「スーパー・リッチでクール・ビューティーな少女」は第三走者を担うことが多かった。最後の年までは同じクラスでないので彼女がお昼ご飯をどうしているのか知らなかったのだけれど、試合にゆくとパンなどを一緒に買いにゆくことがあり、その時に驚いたのは、中学生の頃からお財布にお札がいっぱい!私はというと必要最低限のその日のお小遣いを貰っていただけなのでビックリ。学年を上る度に仲良くなっていてようやく高校三年生で同じクラスは嬉しかった。お誕生日とかクリスマスくらいしかケーキを食べることは普通なかったけれど、そのお友達はしょっちゅう食べていると云う。高校にもなれば学食を利用する人が多く、お昼休みに教室に残っているメンバーは決まっていた。ガランとした教室で、私は持参したラジカセと編集したカセットテープをそのメンバーに聴いてもらうことが楽しかった。どんな反応を頂けるかなって。その中にはブライアン・イーノやエルヴィス・コステロを知っている人が居て意気投合したり。彼女は演劇部。私は16歳で腎臓が悪化しドクターストップを受ける。診断書を先生に提出しみんなとお別れした時のことも想い出す。お陰で自由な時間ができた私は学校の図書館を利用することが多くなった。読書をする時間が退部届けと引き換えに与えられたみたい。校舎から見下ろすと中学から一緒に過ごしてきた彼女たちの姿がある。寂しかったな...。でも、その女の子とはクラスが同じなので部活が終ってからも一緒に過ごす約束が多くなった。彼女と私は校区の端と端というくらいにお家が離れていた。彼女達の通学路の近くに私のお家があったもので、制服のまま彼女たちが集まることになって行った。

私は両親によそのお家に遊びに行き門限を過ぎて帰宅すると凄く叱られた(私の10代の門限は夕方の6時だった)。なのに、彼女たちが家に居てくれる分には問題なくて、時には晩ご飯を一緒に過ごすこともあった。なんだか変なのだけれど、お友達と少しでも一緒にいるために、彼女たちのすっかり寄り道の場所に私の家(部屋)が役立っていたようだ。私は早々と私服に着替えて彼女たちがやって来るのを待っていた。そのメンバーに洋楽を聴く人は居なかったので、彼女たちが好きそうな日本の音楽(当時はニューミュージックと呼ばれていた)をエアチェックした専用のテープを用意して。偶に洋楽をかけたりしても反応はなく、ほとんどお喋りしていて耳を傾ける暇もない。「いつもこんな音楽聴いてるの?」とか「普段はこんな格好してるんだ!」とからかわれた。「ロックを聴いていると肌が荒れるんだよ」とか...懐かしい♪

そして、いつもお財布にお金をいっぱい持っているスーパー・リッチなお友達。彼女はいつの間にか、学食ではなく購買部でパンとジュースを買ってガランとしたお昼休みの教室メンバーに加わるようになった。そんな時に初めて知ったこと、その時のことが忘れられない。ポツリと「毎日お弁当で羨ましい...」って、そのクール・ビューティーな少女が云った。ドキっとした。その寂しげな表情と同時に「そうか!」という想い。私は毎日お弁当が嫌でみんなと偶には学食に行きたかった。母に云うと週に一度だけ500円を学食費に頂けることになり、姑息にそのお釣りを貯め翌月のレコード代に充てていた。私のお弁当と彼女のパンを半分ずつ交換することもあった。そうすることを喜んでくれるので。私の家で最も遅くまで居ても良かったのはそのお友達。帰っても外食ばかりだと母の煮物を美味しいと食べてくれていた。母はそのお友達のお母さんと電話でお話していたこともあったので、実は私より現状を知っていたのだろう。一度だけ彼女のお家に行ったことがあるけれど、自転車でも遠くて少ししか居られなかった。お兄さんとお母さんと三人暮らしだと知った。お兄さんは働きながら大学に通っていると。お母さんはお仕事が大変で、お弁当どころか、一緒にご飯を食べることも滅多にないと。なので、小さい頃から一ヶ月の食費としてお金を貰っていたのだった。私はその時、ずっとお金持ちのお嬢さんだという勝手な彼女への浅はかな思い込みが瞬間に散って行くようだった。そして、彼女の表情にいつも何か翳りを感じていた(それを美しいと想っていた)、その訳も理解できた気がした。あまり他のお友達は彼女の翳りに関心がなかったけれど、私はどうしていつでもケーキを食べることが出来るのかを知った。でも、そのケーキもいつも独りぼっちで食べていたのだと。よく連れ立って学校内を歩くようになったのに、進路は異なり卒業しなくてはならない日がやって来た。桜の咲く頃はこうした淋しい想い出ばかり。

私が陸上部だったと云うと驚かれることが多い。今から想うと自分でも信じられない位に練習していた。校庭はいっぱいにみんなで使っていた。野球部のボールが怖くてビクビクしながらキャッチもできず何度か頭に当たって痛かった。ソフトボール部、サッカー部、フェンス越しにテニス部、その奥にバレーボール部、バスケットボール部。反対側の隅に卓球部、演劇部の人たちも発声練習しながら時々ランニングしていた。英語部の人たちは窓からいつも手を振ってくれた。私は顧問の先生によく注意を受けていた。「何のためにスパイクを履いているんだ!?」って。先輩の真後ろに付いて走らされたことがある。スパイクで土を蹴りながら走る正しい姿なのだ。私の真後ろにいてもまったく土がかからないと云われた。自分では分からず結局上手く蹴りながら走ることが出来ずに終ってしまった。手を振ってくれる英語部の友人たちは私のそんなスーっと走る姿が好きだとフォローしてくれたけれど、実際に先生の指摘は正しいのだった。上手く活用していたならもう少しタイムは良くなっていたのだから。県大会のハードルで練習不足故に転倒してしまった。凄く叱られた。準決勝まではいける予定だったのに予選でのこと。そして、その上手く活用できないスパイクの針で足は傷だらけ。かなりサイテイで先生も叱った後は呆れて笑うしかなかった。私は呆然としていた...でも、今では大切な想い出たち♪

※(追記)
腎臓を十代で患う羽目になったのは自業自得のことだと随分後に身に沁みた。大事な臓器であるのに、私はバカだとしか云いようのないことに、中学高校という時期に校内のおトイレを利用したことがほとんどない。校舎内の云えば秘密の場所。内緒話したり教室では云えない悩み話を聞いたり。そんな為に一緒に利用していた。あるいは、鏡を見て前髪や制服を整えたりする場所だった。また、長年、駅や公共の場のおトイレも抵抗があった。その為に極力水分を摂らないことが普通となっていた。その上、陸上部なので水分はバテることになるのでお砂糖漬けのレモンをお水の代わりに少しずつ食べていた。そんな愚かな時期を情けなく回顧できる歳になっている。そうして、あの頃の私を懐かしい私であるとも。でも、私に違いない。今も完璧に克服できたかは自信はないけれど、醜いと想っていたことが実は美しいことであったり、尊いことであると心から想えるようになった。あるお友達が「偶には太陽に当たるのも大切よ」って仰ってくださった。もう何年か前だけれど、今ようやくそのお言葉の有り難さを感じているところ。人間の日常には滑稽なことも多い。それらの悲喜交々はすべて美しい生きている姿なのだとも。最近、ノスタルジーに浸ることがさらに多くなったのは歳のせいだろう。本当に100歳まで生きられるのだろうか...その為の学びの日々なのだとポジティヴ・シンキングと水分摂取は欠かせない☆
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by claranomori | 2009-11-23 23:00 | 往還する女と少女
b0106921_11131277.jpg★フランスの文豪アナトール・フランス(Anatole France:1844年~1924年)が1886年にパリのアシェット社から刊行された、『少年少女』という19篇の短いお話からなるもの。初刊の題名は『我々の子供たち』と題された上下巻からのものだったそうだ。その下巻の題名が『少年少女』で日本語訳の折にこの題となったとあとがきに記されている。私は馴染みの深い三好達治訳で手にしたのだけれど、もう大人になっていた。そして、この小さなご本を10数年ぶりに読み返し感動している。もう毎日がこんな具合で過ぎてゆく。ちょっとばかり今、バランスの均衡が不安定でまた風邪気味。何故、私はすぐに風邪をひいてしまうのだろうか。きっと、精神力や気力、また自己管理能力が欠けているからだろうと想う。考えなくてもよい「ここではない、どこか」へ想いを馳せることが多く、でも「あなたの場所はここよ!」と現実の大きな壁が現前する。そんなまだまだ人生という荒波の真っ只中の私。それでも、私なりに少しは乗り越えて(あるいは伴って)歳だけ重ねているとも想うのだけれど。

読みやすく品性のある文体。子供の頃にも読んでみたかったな。今の私の心に響く数々の少年少女たちの日常風景。少女カトリーヌと弟ジャンを中心に少年少女たちが主人公。中にはカトリーヌのお友達でもあるお人形も出てくるし、野の草花で花冠や花環を作って遊んだりしている。このお話の中の子供たちにすんなり私の子供時代の風景が重なる。過ぎ去りし幼き日々なのにありありと。輝くようにそれらの風景が浮かぶ。ヴィム・ヴェンダース映画に夢を映像化するようなお話のものがあったけれど、そのような機械があれば素敵かなあ...とか。私の脳内あるいは心象風景として輝く場面たち。たかが、想い出と記憶による不思議な風景でもある。
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『カトリーヌのお客日』の中の少女カトリーヌのお遊び。お客様たちはみんなお人形たち。カトリーヌは一人ですべての会話をこなす。そして、器量良しな贔屓しているお人形がいる。そんな少女カトリーヌの気持ちがとってもよく分かる。でも、それらの遊びのなかで、次第にみんなに公平にしなければいけないのだということも学習してゆく。それは誰かに云われるでもなく、カトリーヌの心が自然とそのように感じ始める。面白いくらいに私もそうだったので苦笑してしまうけれど。お話の最初に個性的な挿絵(版画)が載っていて、その挿絵はエディー・ルグランというお方のもの。上の絵はその中のひとつ『カトリーヌのお客日』よりスキャンいたしました♪
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by claranomori | 2009-11-23 00:48 | 本の中の少女・少年
★やはり生きてるって面白いなあって想う。つべこべと想ったことを気ままに色々綴っていると、自分では良く分からないでいたことが、ほんの少しだけれど分かるように感じられることもある。何を云いたいのか!「私は女の子が大好きである!」そして「童女でも老女でもよい!(少女性が感じられたならなおのこと)」。また、音楽や映画で云えば「女性ヴォーカルや女優が大好き!」これらの範囲はとても広い。また「少年愛好」も長年のこと。反して「男性ヴォーカルや男優」となるととても好きなタイプと苦手あるいは興味がない...と限られたものになる。全ては私が男性ではないので分からないからなのだと想う。そして、子供時代のあの性別の区別の曖昧な頃から「美しい男の子」に憧れた。それは、私が「女の子」と植えつけられてしまっていたのだし。

私は自分で性別の差異を考えてもいないのに、両親から「女の子だから」という理由でしてはいけない事や使ってはいけない言葉や態度、遊ぶ時間さえ短くて...厳しい日々を送ってきた。弟がいるのだけれど、姉が云うのも変だけれど少年時代の弟は美少年であった。でも、病弱で入退院を繰り返し学校の成績は悪かった。色んな劣等感があったようだ。そんな弟が愛しかった。そんな時間は短く過ぎ行く。いつの間にかすっかり私の身長を追い抜き、声も変わってしまった。遊び方も違うし、観たい番組も違う。バレンタイン・デイには幾つもチョコレートを貰って帰って来るので助かった。意外とポーカーフェイスを気取った様子などをさり気なく見つめていた。お返しのホワイト・デイにはどうするのだろうかと興味を持った。結局分からないまま。内気なので実は好きな女の子からは貰えずに淋しかったのかも。私も女の子からチョコレートを貰ったことが過去にある。所謂、思春期に入っていた頃。けれど、その眼差しにまったく気付かずにいた。上手く行かないものなのだ。私の好きな女の子は早熟で早くから男子と交際していた。けれど、その男の子に嫉妬はなかったようだ。なぜなら、私は音楽が大好きになっていたから。その日々は一日一日と日増しに。偶像(アイドルやスター)に夢を馳せていたのである。ヒーローとは男性か性別のないものと感じていた。また、揺るぎのない最大のヒーローは父である(今も変わらずボウイだって敵わない)。なので、身近の男子と交際なんて気味の悪いことだったのだ。でも仲の良い男子は居たので何故もっと普通に友情が保てないのだろうか!と長年想ってきた。今はようやく異性の友たちが居る。時間が必要だった、とても。

こんな具合なので、「変なの~!」とか「変わっている」と云われ続け、私の大好きな音楽や映画に対してもまったくの偏見で批判も受けた。分かってもらえないから話すを止めてしまった時期もある。それが私の思春期の真っ只中。気持ちの悪いものや汚いとか醜いと感じるものが強くあった。高校にもなれば周りのお友達は恋愛と共に学校生活があった。失恋して泣いている姿も幾度も見て一緒に泣いた。代理で告白を伝えに行くこともあった...良い想い出はない。男子たちのみるみる逞しく成長する姿が不思議だった。また同じ位に女子たちのみるみる変容してゆく姿には複雑な想いがあった。私は身長はまだ伸びて欲しいという勝手な望みを持ちながら、その他の成長を拒絶する想いは強烈だった。そんな私を「おかしい」と周りは云うのだけれど、自分でも分からないのだからどうしようもなかった。今もまだよく分からない。ただ、私は女性であると分かってはいるので「女の子」の気持ちは色んなパターンで想像できるし理解しようとする。けれど、「男の子」のことは分からない。なので、「美しい」と思える無性の刻の「少年」ならまだ近いものを感じるのかも。大人の女性も中性的な方が今も好みだし、やはり何か欠如しているのかもしれない。

私のもう少し上の世代の方々は白黒テレビという時代。私はカラー世代。お話しているとこれはとても凄いことみたい。同じ番組をカラーで観るのと白黒で観るのは。郷ひろみはカラー世代ならではの新しいアイドル登場であったのだと想う。陽の美少年(美青年)である郷ひろみ。思春期に入ると一気に中性的で耽美などこか妖しげな世界に憧れ始めた。太陽や健康的なものから逃げるように。タイミングは見事でデヴィッド・ボウイやルキノ・ヴィスコンティを知る。今の私は亡き両親の歳に近づいてゆく。弱いなりに結構大病に至らず生きていられることを幸せに想う。角膜の問題で太陽光線が苦手ではあるけれど、最近は太陽の尊さ(恵み)を少しずつ感じられるようになっている。月光や星を眺める方がずっと好きではあるけれど、不健康な不規則な生活をしているけれど、ようやく「健康である姿の美しさ」を感じられるようになっている。それは、15才のあの綺麗な女の子みたいな少年だった郷ひろみが54歳になり、今なお清閑な姿を維持していることを再認識したことによる。初めて好きになったアイドル(スター)である。それも大好きだった。子供の頃にまっすぐで毒気のないアイドルを好きになったことが今の私には貴重な想い出なのだ。日本語の歌、歌謡曲、関西人なので上方芸能に親しみ、それらの歌詞やメロディー、また泣き笑いのお芝居を観て育った。少女マンガを読み異国を夢見ながらも、日本語の詩は響き刻まれていたのだと想う。そんな訳ですっかり毎日、ひろみの古いレコードを聴いたり歌詞を読んだりしていると、これまた新鮮なとんでもない発見が次々とある。初めて行ったコンサートも郷ひろみだった。少し年上のお姉さんたちの方がファンが多かったのか、仲良くしてもらっていた。一度だけ最前列で拝見できたのだけれど、テレビで観るよりさらに細くて綺麗だった。大阪のフェスティバルホールは満員で、階段をドキドキして上ってゆくと煌びやかなドレスを着た美しい女性方が花束を抱えて語り合っていた。上まで上るとその方々は女装をした男性方だった。云われなければ女性だと想っていただろうというくらい印象強く残っている。私の音楽原点は郷ひろみであり、岩谷時子&筒美京平の楽曲たちなのかもしれない♪

大学生になってからマニアックな音楽友達もできた。”洋楽を聴き始めるまでは誰が好きだった?”と訊かれ、どんな反応をされるかとちょっと緊張しながら”郷ひろみ”って云った。すると、その先輩達は”そうだろうね”と意外と同意してくれたことを想い出す。当時、その先輩との共通の好きな音楽はジョン・フォックスやマーク・アーモンドたちだった★
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by claranomori | 2009-11-15 05:21 | 少女愛考・少年愛好
「郷ひろみに贈る詩」 詩:寺山修司

ふりむくと
青春な海が見える
青春とは 羅針盤のない航海である

ふりむくと
地平線を染める 夕陽が見える
青春とは 涙ぐむやさしさである

ふりむくと
遠くで振っている 手が見える
青春とは 一日一回のさよならである

(中略)

ふりむくと
半分開いたドアが見える
青春とは 星かぞえて
大人になってゆく 日々のことである

ふりむくな
ふりむくな
うしろには何もない

ひとは どんなさびしいときでも
ふりむくことを止めれば
ほんとの人生を はじめることができるのだ

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by claranomori | 2009-11-14 20:15 | 愛の花束・日本の抒情
「優美な光と生きる」

一瞬のまたたき 心が叫ぶ
夜が怖くて 朝が来るのも怖かった
数年程前の私 病院でも理由は不明
溢れる涙 ふるえる心 挫けそうになっていた

人生がこれ程残酷だとは思いもしなかった 哀しいけれど現実
それでも 美がこの世に存在するということも信じて生きている
野に咲く小さな花や小鳥の囀り 楽の調べは私の心に共鳴する
まるで天使が舞い降りたかのように心が躍る しあわせだ

苦しくとも 嶮しくとも 人生謳歌していたい
なぜなら この世に生を受けて私があるのだから
幾千年もの刻を転がり生き続ける物言わぬ石ころたち
すべて意味を持って存在しているのだと教えてくれる

悲しみをもって喜びを知る 泣いた数だけ優しくなれたなら
それは学び この苛酷な人生から得られる崇高なるもの
声を潜めた人形たちは知っている 私の心を 甘美な愛しい友たち
闇から逃げず見つめよう 光をもとめて 輝く美しい光は心の中にある

chouchou (VELVET MOON・BRIGITTE)
http://www.velvet-moon.com/
http://www.velvet-moon.com/brigitte/


★素敵なフリーペーパー『毬』の最新号に私の拙い短いものが記載されています。この『毬』を知ったのはお世話になっているお友達『乙女屋』様の店主様から、文章を読むのことが好きな私に何気なく頂いたのがきっかけ。今回のテーマは「疲れ」というものでした。勝手の分からない私ですのに”気楽に書いてください”と編集者のお方のお優しいお言葉を受け、今年の真夏の日に書いたものです。当店にもこの『毬』が届いていますので、お買い物頂きましたお方に同封させて頂いております。届く以前にお買い上げ頂きました皆様には同封できずに申し訳ございません。まだ部数がございますのでお会いできます方々には手渡しさせて頂きます。また、この『毬』を置かせて頂けそうな場所、ご希望のお方には郵送させて頂きますのでご連絡ください。宜しくお願いいたします。

この『毬』のコンセプトに共感したのです。「得ること」に対して「与えること」。まるで毬をそおっと転がすように。私の変な活動(「少女愛好」や「フレンチポップスや女性ヴォーカル愛好」などのBRIGITTE)も、またVELVET MOONも正しくそのような気持ちで営んでおりますもので。私利私欲、自己顕示、みんなが「私が!私が!」というのでは疲れてしまう。そして性に合わないのです。当店の主は音楽です。扱っている愛しきモノたちは割れてしまうモノです。でも、その心に響く音楽やお声に安堵する。当店はハートフルなメロディやポップスもあれば、逆に無機質で硬質な電子音楽、あるいは攻撃的ですらあるインダストリアルやノイズのような音楽も扱っています。けれど、それらの音楽を必要な方も居る。「癒し系」と呼ばれる音楽は人それぞれにあるもの。心の平穏さ、均衡を保つためにモノたちがどれだけ必要か!それらをお届けさせて頂くことは喜びです。商売下手で何しているのだろう...と弱気になりながらもいつも愛する「美しきものたち」に勇気を頂いて生きています。

時間が無くてじっくり書いたものではないのですが、この短文は私の心であります。自分に偽って生きてはゆけない。ご注文を頂いたり、私の戯言に反応くださる方々が居られる!「与える」というよりも「届ける」というニュアンスに近い私です。また、「共有する」とか「共鳴する」という感覚が好きで生きています。こんなご時世になんたるウザさ!けれど、多くのことを得て生きていますし学びの連続です。人生は苛酷である。ゆえに何かを克服できた折の喜びは大きいのです。そして、モノへの愛もありますが、やはり人との心は尊いもの。殊に「家族愛」そして「友愛」の尊さ!お金に換算できないものばかりが本当に必要なものに想えます。なので、「泣いても泣いても人生謳歌」と私はもっともっと精進してゆきたいと想います。

皆様、いつもありがとうございます!!
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by claranomori | 2009-11-11 10:43 | お知らせ
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★大好きを集めたコンセプトbook 「J'adore(ジャ・ドール)」が完成したとのご連絡を受けまして、当店に届きました!素敵な仕上がりです。オールカラーという贅沢さとテーマの「プリンセス」という内容で可愛いらしいミニブックです♪

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乙女屋店主様{otomeya}桃源郷様が、愛しい、楽しい、幸せ!をもっと多くの方と共有したいという想いから、とびきりに大好きなものたちを集め、1冊の本「J'adore」を作られました。テーマは「プリンセス」☆展示販売イベントも開催されました♪

◆なんと!このミニブックの中に2ページ、『ガラスの城の王女たち ~「ジャドール」に寄せて~』と題しまして私も寄稿させて頂きました。きっと、私の文章だけ浮いているようにも想いますが、可愛いので是非ともご購入ください。VELVETにもご本が届きました販売中です。ジャドール! フルカラー 28P 600円です。

部数に限りがございますのでお早めにお買い求め下さい。VELVETでも取り扱わせて頂いております→ こちらからご購入・お問い合わせください

私chouchouへの伝言やお知らせ等も、こちらからお気軽にいつでもくださいね♪ → VELVET MOON宛へ

☆既に、お買い上げくださった皆様、ありがとうございます!☆

皆様、どうぞ宜しくお願いいたします!
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by claranomori | 2009-11-05 11:18 | お知らせ
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★ヴァネッサ・パラディ!私にとって”小悪魔”とか”フレンチ・ロリータ”というイメージのリアルタイムはこのヴァネッサちゃんからであると想う。ブリジット・バルドーは既に引退されていて、ずっと後追いで映画や音楽を聴くようになった。リオは私には輝くキュートな存在で不貞腐れた感は希薄で、”フレンチ・ロリータ”と云えるけれど私の当時のイメージと少し違っていた気がする。ヴァネッサ・パラディのことは特に予備知識もなく12インチのレコード・ジャケットを購入したあの場所も雰囲気も私の気分も覚えている。気になってしかたがない、あの小生意気な表情のレコードを抱きしめるようにして家に帰った。そして、針を置き聞こえてくるあのお声に歓喜した!またしてもジャケ買い大成功!であった。

デビュー・アルバム『マリリン&ジョン』~『ヴァリアシオン』~『ビー・マイ・ベイビー』の3枚はヴァネッサ・パラディの10代の時代の作品。本国フランスではデビューの頃から大人気だったそうだけれど、世界的にはレニー・クラヴィッツによるプロデュースや楽曲の『ビー・マイ・ベイビー』だろう。1993年には来日の予定もありワクワクしていたのだけれど流れてしまった。また、この頃のヴァネッサ・パラディはアメリカへ渡っておりレニー・クラヴィッツとのロマンスの噂も耳にした。90年代後半にはコカイン所持というショッキングなニュースもあったりした。でも、その後、ジョニー・デップと恋に落ちご結婚され今も仲良しのご夫妻。ジョニー・デップがアカデミー賞等のノミネートでレッドカーペットを歩く折、横に居るヴァネッサちゃんを観ることのほうを優先してしまう。今も素敵!

何度か、”マイ・ブーム”となるヴァネッサちゃんであるのだけれど、最近またよく聴いている。やはり10代の頃の作品が好き。美少女という感じではエルザの方がずっと好きだけれど、なんとも云えぬ魅力がある。80年代の音楽なのでノスタルジーというよりもついこの間まで聴いていた曲たちのよう。なので、ブリジット・バルドーからのフレンチ・ロリータの系譜を眺めるのは好きではあるけれど、やはり一括りだとちょっと物足らない感じかな。だからどうということでもないのだけれど。

フレンチ・ポップス好きの友人で面白い人が居る。大人しい男性で私と一緒で大の女性ヴォーカル好き。けれど、女優さまの好みは少し違う。彼は女優も歌手も奥様も一貫していて”小悪魔的”なのだ。こうも行動が伴っていると天晴れとしか云えない。私が「どうして、小悪魔的な女性が好きなのですか?」と尋ねると、小さな控えめな語り口調で「なんか振り回される感じが...」って。「約束の時間に来なかったり、すっぽかされたりしても?」と尋ねると「それがいい...」って。愛おしい友である。最近はお子様も居られるのであまりお会いしていないのだけれど、すっかり可愛い娘さまの成長を愛でておられるのだと想う。女性上位時代は現実の中で育まれているようだ。女の子に頬をバシっ!とされる男の子(カップルで)。そんな光景を幾度も通常の街中で拝見するようになった。お話が逸れるけれど、そんな光景に遭遇した折は、何故か心の中で”男の子の気持ちを想像してしまう....”。私はそんな女の子はあまり好きではないけれど、結構その後も仲良く歩いてゆくのでそれはそれで良い関係なのだろうけれど。少女も少年も「愛らしい」人が好き。けれど、か弱いのに突っ張っているような、ちょっと不器用な少女もまた魅力的でもある。当時、ヴァネッサ・パラディにはそんなイメージを強く持ったのである。好きな楽曲や作品についてはまた追々に♪
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by claranomori | 2009-11-03 11:08 | 私的少女音楽★愛しき歌姫
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★ナディア・コマネチ(本名ナディア・エレーナ・コマネチ:Nadia Elena Comaneci)は1961年11月12日生まれのルーマニア出身の体操選手。1976年のモントリオール・オリンピックで史上初の10点満点を出した女子体操選手!私はこのオリンピックをコマネチのことだけしか覚えていない。体操は日本男子も元来得意とする種目でもあるので、当時ケーブル放送などのない時代、ニュースやハイライト・シーンなどで映像が焼きついているのだろう。僅か14歳という少女があの10センチしかない幅の平均台や段違い平行棒や床などで軽やかに宙を舞うお姿。華麗に見えてもとても筋力も超人並だしメンタルな面でもどんなに大変だったろう!私はこのコマネチの存在を知ったゆえに、以後、オリンピック開催の度に女子体操をワクワクして鑑賞することになってしまった。ルーマニアは何故か今も応援してしまう。コマネチは今も体操の世界の指導者として貢献されているけれど、ルーマニアの激動の時代で決して平坦な人生ではない。それでも、世界中の少女たち、とりわけ体操を目指す少女たちに夢と希望を与えた少女に違いない。私は小学生ながらあの感動は言葉に表わせないけれど、胸高鳴る鼓動が今も感じられる。”凄い!”とか”可愛いのに素敵!”っとピタっと静止する体勢、微塵の狂いも無い躍動なのに軽やか。最近は採点方法も変わってしまい、難易度の高い技術面が重視されるようになり、あの柔和な少女の舞いがアクロバット風になってもいる気がして少し寂しい。けれど、年々凄い少女たちが世界中から出現されては消えてゆく。コマネチの頃の白いユニフォームにポニーテールにおリボン。この絵がどうしても離れない。最近はメイクも濃い少女たちが多く、筋力は凄いのだけれどどうもガッチリした体型の選手たちが目立つ(特にアメリカ、強いけれど)。
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後に、ビート・たけしのギャグにも使われていた(漫才ブームの時だっただろうか)。けれど、一度も笑ったことはない。ビート・たけしは面白いお方だけれど、あのギャグが何故受けているのかさっぱり分からないのだった。ギャグに使われる程、お茶の間に強烈な印象を残した少女であったのだろう。コマネチはその後もオリンピックや世界選手権に出場されていたけれど、いつだったか、すっかり身長も伸びふっくらと女性らしい体型に変わっての出場だった。それでも、応援していたけれど、嘗てのような感動ではなかった。そして、何か去りゆくものを感じていたようにも想う。でも、私が初めて好きになったスポーツ選手!あの「白い妖精ナディア・コマネチ」。笑顔で手を振るお姿が今も目に浮かぶ。ああ!可愛い☆
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by claranomori | 2009-11-03 09:51 | 写真の中の少女・夢の時間