あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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★この挿絵は英国の絵本・挿絵画家であるウォルター・クレイン(WALTER CRANE)によるもの。脳内整理のためにちょっと『赤頭巾(赤頭巾ちゃん)』のことと、日頃悶々と思考しては堂廻目眩で「少女迷宮」から脱出できず(結構愉しんでもいるのだけれど)にいる想いなどを。

私が幼き日に読んだ『赤ずきんちゃん』はグリム童話が最初。大人になってからも童話がやはり好きでいるので、どうでもいい(大切な)薀蓄も積もる。17世紀にフランスのシャルル・ペローが『ペロー童話集』として古くから伝わるお話(伝承・民話)をまとめた『赤頭巾ちゃん』が最初のものとされている。およそ100年後に、ドイツのグリム兄弟により終末を大きく書き換えられた。私は子供の頃はそのお話しか知らなかった。少女に赤い頭巾を被らせたのはペローだそうだ。

こういうお話は慎重に綴らなければならない。けれど、少女が大人になってゆくうえでの通過儀礼の教訓としても、これらの童話は深い。なので、研究家の学者方もおられるのである。狼に食べられたままで終るペロー童話と、猟師が狼をやっつけお腹を裂きおばあさんと赤頭巾ちゃんを助け出す。その上、狼のお腹に石を詰め込むという勧善懲悪の結末。おばあさんも赤頭巾ちゃんも助かって良かった。しかし、この赤頭巾ちゃんは用心が甘い。

私は兎に角用心深い子供で、今に至る。そんな性格になったのは母が子供の頃から、「一人で道を歩く時、寄り道をしてはいけない。また、止まっている車があれば離れて歩くように」などと云われて育った。お陰で今も夜道を一人で歩けない。自転車でも暗くなると猛スピードで走る。同じ帰り道のお方なのだろうけれど、後ろから追ってくるような気がして神経が休まることはない。要らぬ神経を使いドッと疲れる日々を生きている。一度、待ち伏せされたこともある。自転車を盗まれてしまい歩いて暫く帰宅する日々のこと。20代初めだったのに、その待ち伏せしている少年たちは中学生位だった(らしい)。怖くて怖くて駅にダッシュで戻った。そして、駅員さんにお話して一緒に居てもらった。相方が友人と車で迎えに来てくれ家まで送って頂いたのだった。今は彼等には笑い話のようにされるけれど、私は今も思い出すと怖くてたまらない。何も被害は無くて良かった。

このお話の中の狼は少女を狙う悪い大人ということでもある。エーリッヒ・フロムの新フロイト派。または、フロイト派とユング派と呼ばれる学派がいろいろな理論を述べられる。一応、気になるので読んでみたけれど、どうも難解。私にも分かることは、エーリッヒ・フロムの説で云うと、母親が赤頭巾ちゃんに「道草をしてはいけませんよ!」と注意をすることで警告を出しているということ。また、興味深いのは助け出された赤ずきんちゃんたちは狼のお腹に石を入れ復讐をする。それは、石女《うまずめ》を示唆しているというのである。社会的に虐げられている女性が男性に復讐する物語であると。

フロイト派では、「無意識ではエディプス的なつながりを断ち切れずにいる学齢期の少女が、解決しなければならない問題」を取り扱った物語としている。狼の誘惑を悟り、狩人という誘惑者でない男性に保護されることを学び、より高い人格的な存在へと成長するというものらしい。また、ユング派は、狼を単に男性的な側面だけでなく、[母=娘]結合の中に安住している少女が一人前の成熟した女性へと成長する過程において、自立のプロセスの裏面には悪が存在し、それには危険が伴うと考えるそうだ。

『赤頭巾』は題材にされることも多い。映画『ミミ MIMI』は黄色頭巾ちゃんであったことを想起する。また、童話の中の少女の《赤》というものには意味がある。それ故に、エロスのお話へともなり、そのような題材にもなるのだろう。なので、言いなりになっている受動態の少女は危険であるとも云える。また、逆に少女が男性を誘惑するという《ロリータ》も存在するけれど。

私はペロー童話の方が今では好き。食べられたままの赤頭巾ちゃんは可哀相だけれど、教訓としてのペロー童話が。少女や少年たち、子供たちは守られるべき存在。けれど、成長してゆく中で、社会に出てゆく中で、大切なことは自分で考えて判断しなければならなくなる。そんな社会や世の中には危険がいっぱい潜んでいると想うからでもある。私は今も臆病で怖がりなので厄介でもあるけれど、用心に越したことはないと心配性を幸いとも感じている。ましてや、復讐というのは好きではない。
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by claranomori | 2009-09-30 07:00 | 童話・絵本・挿絵画家
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「小さな勇気が世界を変え、女の子でもヒーローになれる」

このように語るのはニュージーランドの作家ウィティ・イヒマエラ。1987年に刊行された小説『クジラの島の少女』の作者。2002年には、同じニュージーランドの女性監督のニキ・カーロにより映画化もされた。その少女も可愛いお方であった。

女の子でもヒーローになれるし、男の子でも女神(ミューズ)になれる。私はこの主人公の12歳の少女と同じ歳であったという事実が嬉しい。多くの少女は愛らしい夢を抱き希望に溢れた日々を送っていただろう。私もそうではあるけれど、実に行動力の乏しい心だけは冒険家のようでもあったので、こうした少女が苦しい目に遭いながらも光を求め報われるお話はとても気分が良い。

クジラ乗りという先祖を持つオマリの一族。彼等は代々男性を長としてきたのだけれど、初めて女の子が生まれた。跡継ぎは男の子と切望する長である祖父は、どうしてもその少女カフを受け入れることができない。そんななか、のびやかに成長してゆく少女を襲う運命と愛と奇跡の物語。

伝統社会からの拒絶と軽蔑を受ける少女。けれど、その少女は死と再生、すべての苦難の末の平静と調和をもたらす使命を受けて海からやって来た少女。聖なる存在としてのクジラ。クジラというと妖精や少女との絆が深いと勝手に想い込んでいる。そのようなお話を好んで読んだり観たりするからだろうけれど。海は女性名詞である(フランス語で)。私はウーマンリブというものにあまり興味はない。けれど、男性視点の少女のお話のなんと多いことか...それらは好まれるのだろうけれど、私は少女も少年も尊い存在であるし、言いなりになる受動態の少女が健気に映る場合もあるけれど、そればかりが少女ではない。私の憧れていた少女は勇敢だった。その上美少女でもあった。

『ライラの冒険』の主人公は女の子。そんな冒険物語がもっと作られ観る方も増えると良いのに...と続編が未定なようなので寂しく想ったりする。この映画化された『クジラ島の少女』は原作よりも少女カフの心をより強く描いている。そういえば、映画ではカフは双子として誕生していた。そのもう一人は男の子だったけれど、死んでしまったということになっていた。

「エ ヒネ、エ ノホ ラ (少女よ、さようなら)」と泡立つ水の中、クジラは巨大な尾びれを振ってお別れの挨拶をする。海とクジラが織り成す調べに美を感じる☆

※苦手な夏と体調不良、そしていつもの如くの貧乏暇なし状態で、ここ数ヶ月更新が少なくて頭がもう、「爆裂少女都市」状態のようです。なので、脳髄少女たちと勝手気ままな想いをせっせと綴ってゆきたいと想います。いつも、ご覧頂いている皆様、ありがとうございます!
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by claranomori | 2009-09-28 19:55 | 本の中の少女たち・少年たち
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★マーティン・シャーマンの原作戯曲の舞台劇の初演は1979年。ブロードウェイでも上演され、リチャード・ギアがマックスを演じたものもあるそうだ。日本でも役所広司主演の舞台もあったという。この戯曲が『ベント 堕ちた饗宴』(邦題)として映画化されたのは1997年。マックスを演じるのは今ではハリウッド映画でも大活躍のクライヴ・オーウェンで、彼の主役映画で一等好きな作品。ダンサーのブライアン・ウェバーが収容所送りの貨車内で拷問のうえ死んでしまう場面は辛かった。眼鏡はインテリの印だとゲシュタポは踏み壊す。その将校は眼鏡をかけていた。

この映画は歴史を伝えながら静かに訴えかける。静か故に切々と悪夢の歴史とその犠牲者たちの死を無駄にしてはならないのではと悲痛な想いを抱く。このような題材の映画がハッピーエンドなはずは無い。悲しくて泣いてしまうけれど美しい!ゲシュタポ内にもゲイの将校は存在したのではなかったか!マックスがゲシュタポと取引(生き延びるために)しゲイの印であるピンク・トライアングルではなく、ユダヤの黄色の星を胸につける。ホルスト(ロテール・ブリュトー)はゲイとして生き延びたいと願っている。彼の誠実さと勇気に感動する場面がいくつかある。中でも、終盤、射殺される前にマックスに背を向けて歩き出す中で、愛のメッセージである眉を掻く。それはマックスの心にしっかりと届いたのだと想う。無意味な作業、重労働を課され真夏も真冬も12時間。2時間に一度の休憩時も座ることは許されない。マックスとホルストは岩を運びながら会話を密かにする。見つめ合って話すことも、体を触れ合うことも許されない。すべて監視されている。二人は休憩時間にお互い横に並び言葉と想像で愛を交わす。こんな最悪の状況下でも愛は存在するのだ!そんな美しさに私は胸を打たれる。けれど、同時にやるせない想いも募りヘヴィでもある。
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この美しくも重い映画を4回観た。観終えたあと、暫く何もできないのだけれど。理由はミーハー故のこと。序盤にミック・ジャガーが女装して歌う場面と僅かな台詞がある。ミックが好きなのでその場面は嬉しい。また、マックスの叔父役でイアン・マッケランも少し登場される。豪華な序盤である。エンドロールでもミックの歌が聴ける。そのキャストを眺めていると、ジュード・ロウとポール・ベタニーの名があった。ほとんど、クライヴ・オーウェンとロテール・ブリュトーがメイン。私はジュード・ロウが好きなのにどこに出演されていたのか分からず。そこで、確認するために再見した。ほんの僅かながらあの少年のような輝く瞳は間違いなくジュード・ロウであった。ポール・ベタニーは何となく検討がついていた。将校の大尉役だった。あまり大写しのアップはなかった。そして、また後に、ルパート・グレイヴスも出演と知り再見...こんな理由で幾度もヘヴィな気分となりながらも、常に感動して涙に溢れる私はなんだろう...。英国は美少年・美青年の宝庫であるのは随分前から変わらないので嬉しい。

この映画はピンク・トライアングルというテーマが主。収容所内で作業着に付ける印のこと。政治犯は赤の三角、ユダヤは黄色の星、同性愛者はピンクの三角。この順序であるので、ピンク・トライアングルは最低ということなのだ。片っ端から相殺されてゆくので、ミック演じるグレタはジョージと名を変える。マックスの叔父は長年隠れゲイの生活を続けている。皆、生き延びるための手段。その選択を非難することはできない。ミックの歌う曲も好きだけれど、全編を流れるフィリップ・グラスの音楽がとても素晴らしい!映像と一体化して、優れた俳優の演技と共に芸術となる。そして、観る者はそれぞれの想いを抱き思考する。ゲイという言葉(劇中の字幕はホモとある)やそれらの人々に対して邪な偏見を持たれているお方はやはりまだまだ多い。なぜだろう...愛することは人間の権利である。美輪明宏さまのお歌にもあるように!意図して同性を愛するのではない。好きになった人が同性だったということ。どうして?と人は訊くけれど、当の本人たちはその答えを持っていないのではないだろうか。好きだからという理由に男女の境界が必要ではない。人が人を愛するのだから。そんな当たり前のことなのに。日本の同性愛の歴史はとても古くからあることなのに。日陰者の想いを抱きながらの日々なんて。何の罪でもないのに。犯罪でもないのに、最低のピンク・トライアングルを付けられ死へ追いやられた多くの犠牲者たち。ユダヤ人の虐殺のお話は学校でも習うけれど、こうした史実も伝えてゆくべきだとも想う。
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ベント 堕ちた饗宴/BENT
1997年・イギリス映画
監督:ショーン・マサイアス 原作戯曲・脚本:マーティン・シャーマン 
撮影:ヨルゴス・アルヴァニティス 音楽:フィリップ・グラス
出演:クライヴ・オーウェン、ロテール・ブリュトー、ブライアン・ウェバー、ミック・ジャガー、イアン・マッケラン、ニコライ・ワルドー、ジュード・ロウ、ポール・ベタニー、ルパート・グレイヴス

【あらすじ】舞台は官能に満ちた饗宴が繰り広げられるベルリンのクラブ。そこで働くマックス(クライヴ・オーウェン)は、綺麗な金髪の青年ウルフ(ニコライ・ワルドー)と一晩過ごした翌朝、同棲相手のダンサーであるルディ(ブライアン・ウェバー)の嫉妬の視線にさらされる。それを親衛隊の激しい靴音とドアのノックが打ち破る。ウルフはナイフで刺殺されるが、マックスとルディは間一髪アパートを脱出する。2人はグレタ(ミック・ジャガー)に助けを求めるが、彼はジョージと名前を変え、ゲイの生活を清算していた。そしてヒトラーの命により同性愛者は殺されることを知らされる。2人は各地を転々と逃げ回る。マックスの叔父(サー・イアン・マッケラン)がアムステルダム行の切符とパスポートを1人分だけ用意してくれるが、マックスは2人でなければ駄目だとこれを断る。ある晩、森の中でゲシュタポに捕えられ収容所送りになる。インテリの象徴である眼鏡をかけていたルディは列車の中で拷問される。マックスは助けようとするが、ホルスト(ロテール・ブリュトー)という同乗者に止められ、現実ではないと自らに言い聞かすことでルディを見殺しにする。マックスは人間としての尊厳を捨て、生き延びるために取り引きしようと決意する。ゲシュタポに13歳のユダヤの少女(死体)と関係を持つ。ゲイでないことを証明しろと言われ、これに応じ、ピンクの三角(最下位の同性愛者であることを示す)ではなく、黄色のダビデの星を手に入れる。収容所に着いて、マックスが手にした仕事は石を運び、積み上げるとそれを元の場所に戻すという単純作業で、それもゲシュタポと取り引きしたものだった。さらにマックスはホルストを相棒に呼ぶ。2人は互いに見つめあうことも触れあうこともできないが、言葉だけで愛を交わしあう。季節が猛暑から雪の積もる酷寒へと移り変わり、ホルストは咳をするようになり、彼の体力も気力も衰えていった。ホルストのためにマックスは新任の将校に近づき薬を手にするが、翌朝そのことが発覚し、ホルストは銃殺される。マックスはホルストの遺体からピンクの三角の付いた囚人服を脱がせ、自らの意志でそれを着て電気の流れる有刺鉄線につかまるのであった。
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by claranomori | 2009-09-27 10:30 | 文学と映画★文芸・史劇
私は好きな作品を幾度と再見する癖がある。音楽で云うとそれらは「愛聴盤」であるのだろうし、本ならば「愛読書」というものになるのだろうと想う。夢野久作のあの不思議な文体と世界が好き。全作品読んではいないけれど、3回以上は読み返した作品が幾つかある。それらに共通するものが自分でも今は何となく分かっている。そういうお話が好きなのだ。

その中の一つに『瓶詰地獄』あるいは『瓶詰の地獄』があり、初めて読んだのは二十歳頃だった。その哀しい運命になんとも云えぬ優しいものを感じながら涙した。頭の回転がとてもゆっくりしているもので、トリックの妙に感動したのは後からだったけれど。漂着した三つの瓶。その中に封じ込められた三通の手紙。その手紙で構成される物語。「私達」というのは市川太郎とアヤ子である兄妹。海難事件により南海の離島に流れ着いた二人は兄11歳、妹7歳で、そのおよそ10年後。二人は抱き合って身を投じるしかない運命。手紙にはそれまでの様子などが書かれている。漂着する3つの瓶は書かれた順序(時間)が逆転している。悲劇の結末からその発端となる順序で漂着する瓶。

夢野久作というお方は僅か10年程の執筆活動。この私の大好きな『瓶詰地獄』を前後して書かれたものにも通じるものが多く、どれも好きなもの。この『瓶詰地獄』の初出は1928年の『猟奇』10月号とされている。その折の題名は『瓶詰の地獄』(その後、《の》が付いたり消えたりするけれど、私は通常『瓶詰地獄』の方を好んでいる)。それ以前、夢野久作というペンネームを使う前の作品に『ルルとミミ』という、やはり兄と妹が身を投じる哀しいお話がある。こちらはよりお伽話のような童話作品でもある(初出は1926年『九州日報』3月~4月連載号だそうだ)。海と湖、水の中で死にゆく乙女の姿はまるで「オフェーリア」のようで、私の脳内幻想が煌めく。夢野久作はエドガー・アラン・ポーのファンであったそうだけれど、ポーの『瓶のなかの手記』というもの、そして、『ルルとミミ』というと萩尾望都さまの作品(こちらは姉妹)なども連想して愉快。

『押絵の奇蹟』や『ドグラ・マグラ』にも通ずるもの。その他にもある「近親相姦」というもの、「兄と妹」。夢野久作のお話の中の少女たちは死んでゆく。兄であったり少女であったりと道連れがいる。世間からすると許されない禁断の恋ゆえに。けれど、当の二人は意図してのことではない。すべて運命《さだめ》だというものに悲哀を想う。また、夢野久作の描く少女たちの、聖と穢を併せ持つような少女像が私には夢幻的で薄儚く映り好き。聖と邪...その狭間にあるものは、なんと深く魅惑的であることか!

「近親相姦という、人類の想像し得る最も甘美な夢の一つに作者が耽溺している」 澁澤龍彦 「夢野久作の不思議」より

そんな幻想に耽溺されたがゆえに、地獄に落ちなければならない少女たちがいたのであろう。『少女地獄』のこともまた★

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by claranomori | 2009-09-27 10:18 | 本の中の少女たち・少年たち
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★更新予定の下の3つのフランス映画。上から『汚れた血』(1986年・公開1988年)レオス・カラックス監督、『冬の旅』(1985年・公開1991年)アニエス・ヴァルダ監督、『白い婚礼』(1989年・公開1991年)ジャン=クロード・ブリソー監督のものです。どれも比べることなどできない想い出の映画です。でも、当時よりも今も気になるというのか心に何かが突き刺さったまま...そんな作品は『冬の旅』なのです。アニエス・ヴァルダが好きだし、さらに少女モナを演じているサンドリーヌ・ボネールがとても好きです。可能な限り作品を追っています。この『冬の旅』はドキュメンタリー風のロードムービー。18歳の少女が寒い冬の南仏で行き倒れたところから。冒頭から映し出される映像は美しく詩的です。最初と最後は四重奏の音楽が流れます。この少女モナに感情移入できない私がいながらも、羨望のような想いがあったのかもしれません。1985年の作品ですが日本公開は1991年。私は社会人となっていましたが、今よりももっともっと物質的な環境に恵まれて日々を過ごしていました。衝撃を受けたのだとは思いますが感動した映画とは思っていませんでした。
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マーシャ・メリルという素敵な女優さまも出演されていますが、大半がその土地の人々にヴァルダが台詞を伝えて語っているのです。その人々はそれぞれ個性的です。盲目の老女が出演されます。そのお方と意気投合するモナのシーンが好きです。劇中、もっともモナの素敵な笑顔が見れるシーンです。深いテーマの映画ですので、また観たいと思いますが、大好きな場面は変わらないでしょう。車のラジオから音楽が流れモナの表情が和らぎリズムに揺れるのです。レ・リタ・ミツコの「Marcia Baila」♪この映画と同じ1985年(1984年の1stアルバムからの3rdシングル)のヒット曲です。私はレ・リタ・ミツコが当時から大好きです。2007年にご主人でもあるフレッド・シシャンが癌で亡くなってしまって哀しいのですが、いつまでも彼等の曲を忘れないだろうし、これからもカトリーヌ・ランジェのあの素晴らしい歌声を聴き続けるでしょう。やはり、多感な時期を過ごした80年代という時代は色々な思い出が連なり今も大切なもののようです。

当時はすっかり音楽(デヴィッド・ボウイとNewWave)にどっぷり状態でしたので、この『冬の旅』の中にはもう一つの忘れ難い音楽が登場していました。「パッション・フォッダー(PASSION FODDER)」というフランスのニュー・ウェーブ・バンドです。彼等の前身は「オーケストル・ルージュ(ORCHESTRE ROUGE)」という少し変わったネオ・サイケ風のサウンドでした。ここのリーダーはアメリカ在住で後に、「ノワール・デジール(NOIR DESIR)」との交流などもあります。フランスにもロックはあるのです。なかなか英語圏でのヒットとなると難しいのですが...。「テレフォン」というカッコイイ!パンク・バンドや、「プラスチック・ベルトラン(プラスティック・バートランド)」も良いです。ああ、またタイムスリップしてしまいました♪

※3つの映画の感想等は観直した後に綴ります(『冬の旅』は綴りました)。あまり重複しないために。此方のエキサイト様が新しくニコニコ動画を貼ることができるようになったと表示されていますが、私は観れないので、YouTubeから上記のレ・リタ・ミツコの初期の名曲を貼ってみます☆

Les Rita Mitsouko - Marcia Baila

★私の好きな歌姫:『カトリーヌ・ランジェ:CATHERINE RINGER(レ・リタ・ミツコ:LES RITA MITSOUKO)』(『LES RITA MITSOUKO/MARC & ROBERT』を聴きながら。 2004.9.7.)

NEW WAVEという80年代のシーンの真っ直中にいた私は、今でも当時の鮮烈なる出会いが何処かに住み続けている。英国の音楽に留まらず他のヨーロッパから、N.Y.からと貪欲に探し求めていたものだ。ちょっと変わった音楽たちを"愛しのへんてこりん"と呼んでいる。そんな中にこのフランスのレ・リタ・ミツコとの出会いもあり、彼らの魅力は色褪せることなく現在進行形で大好きなユニットなのである。ゲランの香水からその名前が付けられたというレ・リタ・ミツコは、素晴らしきヴォーカリスト!カトリーヌ・ランジェとフレッド・シシャンの夫婦ユニット。彼らのファッションや信念の強い言動にもとても共感を受ける。カッコイイ!カップルだなって思うのだ。

さて、カトリーヌ・ランジェのヴォーカル!音域の広い多様な表現力。高音で歌う曲も有れば低音で歌う曲も。それらの全てが色彩豊かなカラフル・ポップなのだ。彼らの音楽は様々なエッセンスが入り混じっていて、その無国籍風な楽しさがいつも嬉しい。エレポップ、シャンソン、ロック、ファンク、ラテン音楽的な要素をとても上手く取り入れながらも、自らの世界観を築いていると思う。どの曲でも、カトリーヌの表現者としての存在感は凄い。

1982年にシングル・デビュー。この「マーク&ロバート」は1988年の3rdアルバムで敢えてこの作品を此処で選んだのは、スパークスと共演しているから!デュエット曲も3曲収録しているのだ。この共演は飛び上がる程嬉しかった。初期からレ・リタ・ミツコのお二人が影響を受けてきたアイドル的存在としてスパークスの名前が挙げられていたものだ。デヴィッド・ボウイやイギー・ポップ、エディット・ピアフの名前と並んで。そう言えば、ボウイやイギーのファンであるレオス・カラックス監督の「ポンヌフの恋人」の主題歌はこのレ・リタ・ミツコだった。ピアフはもう居られないので、後彼らとの共演が待たれるのはボウイだけという現在。その夢の共演を待ち遠しくしているのは私だけでは無いはず。

カトリーヌ・ランジェはどの様な曲でも自分の世界で歌い上げるだろう!そんな柔軟性と表現豊かな歌唱力の持ち主なので。アコースティック・ライヴの作品でもそのヴォーカルの存在感を再確認したものだ。彼らは今も自らの世界を産業ポップに陥る事無く、かつポップの持つ魅力を充分に発揮している貴重な存在だと思う。ジャン=リュック・ゴダール監督は「右側に気をつけろ」の中で、スタジオでの彼らを映し出した。ゴダールはやっぱり凄い!嘗て「ワン・プラス・ワン」であの時期のローリング・ストーンズのレコーディング風景を撮ったのも驚異だと思う。

彼らの素敵な頑固さの様なものが好き。それだけの実力がある方々なのでこれからも怯まない彼等から目が離せない。セルジュ・ゲンスブールを批判する事も有ったけれど、ゲンスブールの業績に敬意を表することも忘れない(「システム D」や「ゲンスブール・トリビュート」でカバーも聴ける)。そんな潔さも気持ちいい。もう20年も経ったけれど、作品を追う毎にますますレ・リタ・ミツコ、カトリーヌ・ランジェのヴォーカリストとしての力量、表現力に魅せられ続けているのである。

(※2004年に書いたものですが、「歌姫」というと私には欠かせないお方なので♪)
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by claranomori | 2009-09-19 09:17 | 耽美派少女の愛した音楽たち
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★思春期・青春期を過ごしました80年代はやはりとても思い出深いものです。一人で小さな映画館に通うようになった頃に観たもの(リバイバルも多かったです)は、年月を経たのでまた観直したいと思うのです。とりあえずこの3作品の画像を(80’sフランス映画の3本立てみたいですが)再見してから今の想いを綴っておきたい場所ですので、予定が変更(映画以外の記事も予定がいっぱい)するかもしれませんが宜しくお願いいたします♪
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by claranomori | 2009-09-17 08:26 | 銀幕の少女たち・少女映画
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★『少年の瞳』という1984年のオーストラリア映画。この映画の主人公の少年はとびっきりの美少年というタイプではないけれど、やはり、あの足とお声は愛おしいもの。ビルという名があるのに皆から「PS」と呼ばれている6歳の少年。その小さな少年の視線で映し出される。なので、大人たちを見上げる背丈の少年と上半身がすべて映らない大人たちの場面などもあり愉快。私は前世余程愛に飢えた子供時代を過ごしたのでは...と思えるくらいに、「孤児」「私生児」「戦争による悲劇」というような少年少女たちのお話に敏感。観ずにはおられないという感じ。

この『少年の瞳』の舞台は1930年代のオーストラリア。元々は英国の植民地であった国。英国好きなので好きな俳優方は英国にわんさか。オーストラリアにも優れた俳優方が多く好きなお方も多いのは、そんな歴史が関係しているのかもしれない。あまり国籍や人種で区別はしないので色々観る中で感じていることだけれど。

この映画は日本では劇場未公開。オーストラリアでは各賞を総なめにした作品だそうだ。この少年役のニコラス・グレッドヒルの出演作はこの映画しか知らない。大人たちの会話を耳にし瞳をうるうるさせる愛らしい少年。最後までお話の真相が細かく分からないのは、すべてこの少年の視線で描かれているからだろう。ミーハー故に、私はこの映画のもう一人の主役とも言える美しい叔母ヴァネッサ役のウェンディ・ヒューズが好き。他の作品でも素敵だけれど、この1930年代という時代設定で裕福な役柄。纏われる美麗なお衣装や濃い目のメイクのそのお姿は麗しい。時折、大好きなナスターシャ・キンスキーにホープ・サンドヴァルを足して、メグ・ティリーの雰囲気も重ねたような...。最後は英国に戻る船が事故に遭い死んでしまうけれど、PS少年の父親と若き日になにやら関係があったということらしい。なので、他の姉妹たちのPSを見つめる姿とは異なる。今も愛している人(姉の夫なのでややこしい)の姿を小さな少年の中に見ている。主役はPS少年なのだけれど、私はこのヴァネッサという貴婦人の人生にも興味を抱きながら観ていた。

PSというあだ名は変だけれど、皆そう呼んでいる。叔母が確か4人いた。お産の後死んでしまった母親シンディの遺言の中に書かれていた言葉が由来。この子供は「自分の人生のPS(追伸)のようなもの」だというような...PSが可哀相に思えた。優しい伯母ライラがPSの後見人となり6年を過ごしていた。決して裕福な時代ではないオーストラリアの1930年代。伯母夫婦は質素な生活の中で我が子のように温かく育てて来た。PSも実の両親のように慕っている。そんな矢先に英国からもう一人の叔母ヴァネッサがやって来る。PSを引き取りたいと。6歳の少年はライラ夫妻とヴァネッサの家を往来することになる。まったく違う過ごし方。ヴァネッサはお金持ちなので綺麗なお洋服をPSに与え、乗馬やピアノ、ダンスと色々習わせる。名門の学校に入れられるけれど、そこで「私生児」だとからかわれたりもする。PSはライラの元に帰りたい。けれど、養育費はヴァネッサの方が楽にある。ライラの夫ジョージが失業してしまったことは大きかった。当時のオーストラリアの不況を垣間見ることができる。PSの父親ローガンが突然現れてはまた汽車に乗って行ってしまう。金鉱を手にして戻ってくるというような夢を抱いて。父ローガンは妻のお葬式にも姿を現さなかったという。なので、PS少年はまったく父親を知らない。突如目の前に父親を見た少年の気持ちはどんなだったろう!きっと、よく分からない、言葉にもできない感覚だっただろうから、深く描かれてはいないので、勝手に想像して泣いてしまった。

PS少年が”ぼくはビルだ”という場面は特に感動的だった。実の母親の死を知り、父とも再会(また別れ)、叔母の死を経て、この小さな少年はまた少し成長したのだろう。辛いことが多いけれど、彼等(子どもたち)の前途は光に満ち溢れているものなのだから。そうであらねばならないと想い続けている。

少年の瞳/CAREFUL, HE MIGHT HEAR YOU
1984年・オーストラリア映画
監督:カール・シュルツ 原作:サムナー・ロック・エリオット 脚本:マイケル・ジェンキンス 撮影:ジョン・シール 出演:ニコラス・グレッドヒル、ウェンディ・ヒューズ、ロビン・ネヴィン、ジョン・ハーグリーヴス、ジェラルディン・ターナー、イザベル・アンダーソン、ピーター・ホイットフォード

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by claranomori | 2009-09-17 06:36 | 銀幕の美少年・少年映画
b0106921_5164070.jpg★寺山修司も絶賛された竹宮恵子作品というと欠かせない『風と木の詩』。私は連載時の途中からがリアルタイム。その頃の私は彼等の年齢より下だったけれど、不思議なくらいに違和感なく読み進めていた。後に、このアニメ化された映画をある友人と一緒に観たのだけれど、彼女は好きでも嫌いでもない...という感じだった。語った言葉が印象的で「ジルベールって女の子にしか思えない」と。面白いと思った。彼女には何か不自然なものを感じたようだった。女の子のような男の子でも男の子のような女の子でも私は変だと思ったことが一度もない(魅力的ならば憧れた)。私は今も作品で描かれる少年たちの世界を少女世界に置き換えて観ているのかもしれない、まったくの無意識の中で。男の子も女の子も同じく儚い刻を過ぎ行く。淡い想いを他者に抱くあの気持ちは誰にもあるだろう。私にもある。女の子であった。理解されないお方も多いだろう。いくらここまでボーイズラブという世界が市民権を得た今も。何かが違う気がする。私は限られた作品しか知らない。少女マンガが大好きだったことは誇りにも想う。けれど、早くに映画や音楽へと比重は大きく傾いて行き今に至る。すべてが私の大切な思い出たちであり記憶である。そして、今もこの作品を思い出すことで考えることが色々ある。歳を重ねる中でどうでもいい薀蓄も積もる。そんな「どうでもいいこと」が大切でたまらない!マンガが文学より劣ると安易に語るお方やそのような先入観を自然と持たれているお方も多い。私には優劣などない。美しい絵が沢山頁を彩りお話が進む。その原作が映画になると美しい絵は動き、語る言葉や音楽も一緒。頁を捲り読み進めてゆく愉しみとはまた異なるもの。

ジルベール・コクトー わが人生に咲き誇りし最大の花よ・・・ 遠き青春の夢の中 紅あかと燃えさかる紅蓮の炎よ・・・ きみは、わがこずえを鳴らす 風であった 風と木の詩がきこえるか 青春のざわめきが おお 思い出す者もあるだろう 自らの青春のありし日を・・・

このアニメ映画は僅か1時間程のもの。原作の最初の方のお話。セルジュの回想から始まる。そして、美しい音楽の調べは彼等の儚き刻を印象つける。幼き日のジルベールの微笑み。あの声。あの走る姿...もう戻り来ることのない時間。個人差はあれど、男の子も女の子にもある。今、立派な大人になっている人々にだって...。

※14歳のジルベールとセルジュ。私はあまりアニメに詳しくないので声優方のお名前も知らない。けれど、セルジュのお声があの「のび太君」だとはわかる。「白い王子」ことロスマリネも好きだったと懐かしく回想しながら、何故か物悲しい風が私をよぎるかのよう。聖なるものと邪なるもの。その狭間を想う。私の好きな世界はどうもその境界を漂うものが多いようだ。故に、考えることばかり、何故?と疑問ばかりで生きているのだとも想う。

風と木の詩 sanctus -聖なるかな-
1987年・日本映画
監督:安彦良和原作・監修:竹宮恵子 絵コンテ:安彦良和 
作画監督:神村幸子 美術監督:石川山子 撮影監督:高橋明彦 
音楽:中村暢之 音響監督:千葉耕一 
声の出演:佐々木優子(ジルベール・コクトー)小原乃梨子(セルジュ・バトゥール)榊原良子(アリオーナ・ロスマリネ)塩沢兼人(オーギュスト・ボウ)竹村拓(パスカル・ビケ)柏倉つとむ(カール・マイセ)

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by claranomori | 2009-09-16 07:06 | 銀幕の美少年・少年映画
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ジョルジョーネ(Giorgione)。本名はジョルジョ・ダ・カステルフランコ(Giorgio da Castelfranc)、1477年~1510年という夭折の画家。ルネッサンス期ヴェネツィア派(ジョルジョーネ派とも)に属するお方で作品は多く残されていないけれど、時を経てイギリス・ロマン派の文学の中で脈々と継承され続けることになる。その貢献を讃えるには、19世紀英国画家であり詩人でもあった、ラファエル前派のダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)が浮かぶ。15世紀から19世紀という年月、そして、それらを見たり読んだりする21世紀に生きる私。嗚呼!このような遥かなるロマンがたまらなく好きである。ジョルジョーネの1510年頃(死の直前)の作である『田園の合奏』あるいは『田舎の合奏』と呼ばれるルネサンス画に、ロセッティが寄せた美しい悲哀のソネットを♪

水を与えよ、夏至の苦しみを癒すべく。いな、
水瓶をゆっくり浸せ、いな、身を凭せかけて
聴け、水瓶のふちで嫌がる水が嘆息を洩らすのを。
静かに!深い森の彼方はるかに、
暑さは白みはじめる暁の空に音もなく横たわる。
手は今むせび泣くバイオルの弦を掻き鳴らし、
浅黒い二人の顔は歓楽の極みの悲しさに
歌を止める。細い笛を口から放し、
口を突き出したまま、彼女の眼はいま
何処へかさまよう?蔭の草は
彼女の裸の脇腹に涼しく触れる。そのままに。
今は何も言うな。彼女に涙を流させぬため、
またこのことをいつまでも口にするな。そのままにしておけ、
生命が不滅なものと唇を触れ合っているままに。


※怒涛の8月も過ぎ9月に。ようやく大好きな秋に向けて心身の整えの兆し。あともう一息の大事な原稿を書いているところです。お友だちが出版される「ジャドール」という御本に私も2頁寄稿という大変な任務を受けまして。秋に出版されるので、また此方でも御紹介させて頂きます。VELVET MOONにも入荷いたします。また、9月中旬に発行される乙女冊子「SUCRE」にはなんと!私のインタビュー頁があるのです。どんな感じに出来上がるのかしらとドキドキしながら待っているところです。「SUCRE」は毎号当店でも扱っております。また、フリーペーパー「毬」の9月号に少しですが寄稿いたしました。その「毬」も部数に限りがございますので、お早めに御連絡など頂けますと嬉しいです。これらの詳細はまたお知らせさせて頂きます。私も参加させて頂いているということは別にして、素敵な方々の手によって作られているものたちなのです。ご協力という意味で参加させて頂きました。下手な文章ですのに、届くお方には届くのだということの喜びはこの上もない幸せです。皆様、いつもありがとうございます☆
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by claranomori | 2009-09-01 20:54 | 詩人・作家・画家・芸術家