あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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カテゴリ:文学と映画★文芸・史劇( 43 )

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静かな風景さえも、鳥の飛び交う草原や、刈り入れ時の畑、あるいは緑の燃え盛っている草地でさえも、車が通り、農民や恋人たちが歩いている道さえも、朝市がたち、教会の鐘楼の見えるヴァカンスを過ごす村さえも、ごく簡単に、絶滅収容所に通じているかもしれない。
ジャン・ケロール

★『夜と霧』という映像を観たのは偶然テレビでだった。これほどのドキュメンタリー映画の衝撃は、その後もいまだに私にはない。アラン・レネの要望で実際に収容所に収容された体験のある作家ジャン・ケロールによって、この危険を伴う作業は進められたという。このアウシュビッツの生々しい映像ドキュメンタリーを初めて観た時から随分時が経つけれど、今も甦るのは凄まじい恐怖の歴史と哀しく美しいミシェル・ブーケのこのナレーションの印象。戦争の恐怖、人が人を虐殺するという残虐な殺戮、けれど逃れることの出来ない時代の大きな渦の中に巻き込まれる歴史に是非はないようにも思います。私はホロコースト映画をも見逃すわけにはゆかないのです、なぜだか。これもまた人間の姿であるという悲劇。ナチス・ドイツの姿は何も遥か彼方の歴史ではない。そして、隣国の一党独裁体制下の中国共産党の侵略は、今もなお続いています。日本もその標的であることの脅威...!

夜と霧 / NUIT ET BROUILLARD
1955年・フランス映画 
監督:アラン・レネ 製作:アナトール・ドーマン
原作・脚本:ジャン・ケロール 
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー ナレーション:ミシェル・ブーケ

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この本は、人間の極限悪を強調し、怒りをたたきつけているが、強制収容所で教授が深い、清らかな心を持ち続けたことは、人間が信頼できるということを示してくれた。この怖ろしい書物にくらべては、ダンテの地獄さえ童話的だといえるほどである。しかし私の驚きは、ここに充たされているような極限の悪を人間が行ったことより、かかる悪のどん底に投げ込まれても、人間がかくまで高貴に、自由に、麗わしい心情をもって生き得たかと思うことの方に強くあった。その意味からフランクル教授の手記は現代のヨブ記とも称すべく、まことに詩以上の詩である。
引用野上弥生子 『夜と霧』 書評 より
『夜と霧』 1997年新装版 著:V.E.フランクル 訳:霜山徳爾

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by claranomori | 2012-10-24 23:58 | 文学と映画★文芸・史劇
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★アルトゥル・シュニッツラー(Arthur Schnitzler:1862年5月15日~1931年10月21日)は、オーストリアの小説家、劇作家であり医者でもある。その医者であったことが作品中で恋愛、愛欲の心理と分析の描写、繊細でメランコリックなウィーン世紀末とデカダン的な憂愁の美が漂うように想います。新ロマン主義作家と位置づけされてもいます。
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アルトゥル・シュニッツラーの1900年の戯曲『輪舞』の映画化されたものを二つ観ています。どちらもフランス映画で、豪華かつ美麗な役者方が揃っています。随分前にテレビで観たのが最初で、回転木馬の場面がとても印象強く残ったものでした。どちらも愉しめますが1950年のマックス・オフュルス監督作品の方が1964年のロジェ・ヴァディム監督作品よりも好きです。でも、モノクロ映画とカラー映画、やはり共にスター揃いなので魅入ってしまいます。

タイトルの『輪舞』あるいは『ラ・ロンド』のように恋愛劇を対話風に描き、最初の娼婦と兵隊から最後の士官と娼婦と連鎖しながら10人の男女が結局は一回りするというもの。マックス・オフュルス監督版ではお話を繋ぐ狂言回し役をアントン・ウォルブルックが演じておりますが、ロジェ・ヴァディム版にはこの役はありません。その点でもやはり狂言回し役の存在するマックス・オフュルス版の方が好きだと想えます。アルトゥル・シュニッツラーのこの戯曲は当時公演中止になっています。不道徳だということだったのでしょう。時代が移り変わり男女の恋愛模様も随分様変わり。シュニッツラーも戯曲中でやや皮肉を込めながらも軽妙にお話を進めてゆくようです。どうです、このダニエル・ダリューのお美しさ☆
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【配役】1950年マックス・オフュルス版
狂言回し:アントン・ウォルブルック
娼婦:シモーヌ・シニョレ
兵隊:セルジュ・レジアニ
小間使い:シモーヌ・シモン
若主人:ダニエル・ジェラン
人妻:ダニエル・ダリュー
夫:フェルナン・グラヴェ
売り子:オデット・ジョアイユー
詩人:ジャン=ルイ・バロー
女優:イザ・ミランダ
士官:ジェラール・フィリップ

輪舞/LA RONDE
1950年・フランス映画
監督:マックス・オフュルス
原作:アルトゥール・シュニッツラー 『輪舞』
脚本:マックス・オフュルス、ジャック・ナタンソン
撮影:クリスチャン・マトラ 音楽:オスカー・ストラウス
出演:ダニエラ・ジェラン、シモーヌ・シニョレ、ダニエル・ダリュー、アントン・ウォルブルック、セルジュ・レジアニ、ジャン=ルイ・バロー、イザ・ミランダ、ジェラール・フィリップ、シモーヌ・シモン、オデット・ジョワイユ

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【配役】1964年ロジェ・ヴァディム版
娼婦:マリー・デュボワ
兵隊:クロード・ジロー
小間使い:アンナ・カリーナ
若主人:ジャン=クロード・ブリアリ
人妻:ジェーン・フォンダ
夫:モーリス・ロネ
売り子:カトリーヌ・スパーク
詩人:ベルナール・ノエル
女優:フランシーヌ・ベルジュ
士官:ジャン・ソレル

輪舞/LA RONDE
1964年・フランス映画
監督:ロジェ・ヴァディム
原作:アルトゥール・シュニッツラー 『輪舞』
脚本:ジャン・アヌイ
撮影:アンリ・ドカエ 音楽:ミシェル・マーニュ
出演:マリー・デュボワ、ジェーン・フォンダ、ジャン=クロード・ブリアリ、アンナ・カリーナ、モーリス・ロネ、クロード・ジロー、カトリーヌ・スパーク、ベルナール・ノエル、フランシーヌ・ベルジェ、ジャン・ソレル、ヴァレリー・ラグランジェ、マリナ・ヴラディ


少数派ブログながら参加してみました♪
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by claranomori | 2012-03-17 23:01 | 文学と映画★文芸・史劇
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★ボリス・ヴィアン(Boris Vian:1920年3月10日~1959年6月23日)がヴァーノン・サリバン名義で出版した小説『墓に唾をかけろ』(1946年)をミシェル・ガスト監督が1969年に映画化。ボリス・ヴィアンはミシェル・ガストと映画を製作することが夢であったと語っていたけれど、この映画『墓にツバをかけろ』の試写の段階で惜しくも39歳という若さで死去された。この小説及び映画の舞台はアメリカの南部。まだ白人による黒人差別の社会に於いて、恋愛など許されてはいなかった頃。そんな時代に本国アメリカではなくフランスで作られた映画で、主役のジョー・グラント(小説の中ではリー・アンダーソン)役はクリスチャン・マルカンが演じている。フランスの役者たちがフランス語で語るアメリカ社会。ジョー・グラントは見た目は白人であるが弟の肌は黒い。この点はとても重要である。弟ジョニーがある白人女性と恋に落ちるが、白人たちによるリンチにより絞首刑されてしまう。兄ジョーは弟の仇打ちを誓い、その出自を隠して白人社会へ紛れ込む。友人の叔父シャドレイを頼ってメンフィスからトレントへ。シャドレイは書店を営んでおりジョーはそこで働く。町の若者たちと町の富豪の息子スタンと、令嬢の姉妹であるエリザベスとシルヴィアとの関係などを通し青春を描きながらも、白人による黒人蔑視の根深さが悲劇の結末へと向かう中で強烈に印象つける。見た目は白人であるジョーの爪を見れば黒人であることが分かる。お美しいアントネラ・ルアルディ演じるエリザベスはスタンとの結婚より黒人と分かっていてもジョーを選ぶのだけれど...。

劇中に朝鮮戦争という言葉があり、これまで幾つものフランス映画で青春と戦争という背景が気になっていた。19世紀はイギリスが世界を引率していたと云えるのだろう。そして、20世紀はアメリカという新しい大きな波が世界を引率する。それはいつも戦争を伴っていたのではないだろうか。何か行き場のない若者たちはフランスでも日本でも世界中に。フランスの五月革命や日本の安保闘争など、時期を同じくして若者たちが反体制を叫んだのでは。私は政治に無頓着で生きてきたけれど、革命なり戦争なり、自由や国家のために闘い、時に死さえ懼れずという若者たちの姿に子供の頃から何かしらシンパシーのようなものを抱いていた。そのような資質が何処から来るのかは分からないけれど、ある種のヒロイックなものを今も感じる。一人で白人社会に立ち向うジョーと、白人の令嬢エリザベスは死に至ることでしか結ばれることは許されなかったのだろうが、実に誇り高き姿である。

ボリス・ヴィアン及びミシェル・ガストによるこの『墓にツバをかけろ』は、青春映画としてのフィルム・ノワールであり、またヌーヴェル・ヴァーグ映画とも云えるように想う。音楽はアラン・ゴラゲールで渋いジャズ・ナンバーがモノクロームな映像を彩るかのように響き渡る。

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墓にツバをかけろ/J'IRAI CRACHER SUR VOS TOMBES
1959年・フランス映画
監督:ミシェル・ガスト
原作・脚本:ボリス・ヴィアン 原作 『墓に唾をかけろ』
撮影:マルク・フォサール 音楽:アラン・ゴラゲール
出演:クリスチャン・マルカン、アントネッラ・ルアルディ、フェルナン・ルドー、ルナート・ウェール、ポール・ゲール、マリナ・ペトローバ、カトリーヌ・フォントネー

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by claranomori | 2012-03-02 14:36 | 文学と映画★文芸・史劇
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★宮本輝の『泥の河』を映画化した小栗康平監督の1981年映画。原作は1977年に刊行され太宰治賞を受賞。作者である宮本輝の幼少年期に刻まれたものを回想し、滅び行く者たちの姿や風景を主人公の少年である信雄の眼によって描いている。原作で舞台は昭和30年の大阪であることがはっきり記されている。昭和10年代の名残りのある風景、馬車引きや水上生活者たちがいた頃、高度経済成長の始まる直前であり、そうした生活風俗の最後の時代を知ることができる。私は先に映画を観て、たいそう感銘を受けた作品です。そして直ぐに宮本輝の原作を読み、さらなる深い想いを抱いたものです。滅び行くもの、失われてゆく日本人の美徳を想う中、この大好きな日本映画のことを少しばかり。

モノクロームな美しい映像の中の二人の少年と一人の少女。そして、親たちや同じ街に住む人々の姿。見事な映画化で、日本の名優のお一人であった故、田村高廣の姿が今も浮かぶ。ご自身でも、出演された作品の中で最も好きな作品であると語っておられた『泥の河』。子役の三人、大人たちを演じる個性溢れる俳優方、すべて素晴らしい。初めは声だけで登場する夫を亡くし夜になるとその舟で男性の相手をして過ごす女性(母)を演じる加賀まりこも美しい。そうして娘と息子を辛うじて育てている(二人の子供は小学校に行っていない)、何とも云えぬ悲哀もまた焼きついている。この原作も映画もやはり「哀切」という言葉が相応しい。その哀切の中に見える「美」を想う。貧しさの中の美学だってある。以前触れた、『木靴の樹』というエルマンノ・オルミ監督のイタリア映画の、"貧しい者ほど、神に近いのだ"と語る母親の言葉も蘇る。綺麗ごとではなくて、やはりお金より心や志の方がずっと尊いと私は強く想う。貧しくて心まで荒んでゆく人々も多い。けれど、そうではないのだと、この『泥の河』が日本の嘗て確かに在った日本人の美徳を刻んでいる。人情であったり思いやり、また慎ましさや慈しみが誰に強制されることなく自然と家族内にもご近所の人達、地域に在った。それは私の子供の頃の情景としても憶えている。
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お米、温《ぬく》いんやで

お米がいっぱい詰まってる米櫃に手ェ入れて温もってるときが、いちばんしあわせや。
・・・・・うちの母ちゃん、そない言うてたわ

主人公の少年信雄の家に遊びに来て、調理場の米櫃に手を入れて語る、少女銀子がまた愛おしい。少年は、その少女の母親とはまったく違う二重の丸い目を見つめて、近所に住むどの女の子よりも銀子は美しいと思った。けれど、水上生活者である一家(母と少女と少年)は、信雄に別れも告げずに他に流れてゆく別れの場面で終える。一隻のポンポン船が舟の家を曳いてゆく。少年信雄は、同じくらいの年である少年きっちゃんの名を呼びながらその船の後を追う。「きっちゃん、きっちゃん」と川筋の道を小走りに上ってゆきながら大声で呼ぶ。「きっちゃん、きっちゃん」といくら呼んでも船の母子は応えてくれなかった。何本目かの橋にかかった折に、川波の中で何やら光るものを見る。いつぞやに見た「お化け鯉」。「お化けや。きっちゃん、お化け鯉や!」信雄は必死で叫ぶ。「きっちゃん、お化けや。ほんまにお化けがうしろにいてるんやでェ」と最後にもう一度声をふりしぼって叫び、とうとう追うのをやめる。熱い欄干の上に手を置いて、曳かれてゆく舟の家と、そのあとにぴったりくっついたまま泥まみれの河を悠揚と泳いでゆくお化け鯉を見つめる少年の姿で終える。お化け鯉は高度経済成長の影の姿でもあるのだろう。

★映画化されたのは1981年。既に日本は高度経済成長を続け、一億総中流の日本人となって行った。その私たちが忘れてしまったもの、失ってしまったもの、消えて行こうとするものたちの中に、生きてゆくことの哀しみと共にある日本人特有の美徳が確かに在ったことを忘れたくはない。そして、再び想い起こし考え取り戻すこともできると想う。朽ち行くものを解体及び破壊し、新たなものへ。それは私たちの生活が豊かになるのと同時に、何か心を悪魔に売り渡したようにさえ想う。それは、今回の原発事故によって大きな精神的衝撃を受けることで目が覚めたこと。アメリカ型の生活形態となってゆく過程は、今となれば「アメリカン・ドリーム」という妄想に翻弄されていた時代だったのだろう。でも、それを否定はできない。何故なら、戦後の焼け野原からの再構築に戦前戦後を生きた先人方の命がけの姿は尊いのだから。そんな時代も知らず、ぬくぬく育った私に何も云う資格はない。それでも、私たちの次の世代、その後の世代と続く。生きている私よりやはり日本が亡国になる危機感の方が強い。そうした気持ちが私の心の中にはっきり刻まれたこと、それは自然と共に常に生きて来た日本人の根幹とも云える豊かな土壌の東北での大地震と大津波、そして原発事故による、復興ままならぬ状況の今、再び想い起すべきものは何か。それは失われてゆく、まだ消え失せてはいない日本人の美徳なのではないかと想います。

泥の河
1981年・日本映画
監督:小栗康平 
助監督:高司暁 製作:木村元
原作:宮本輝 『泥の河』 脚本:重森孝子
撮影:安藤庄平 美術:内藤昭
編集:小川信夫 音楽:毛利蔵人
出演:田村高廣、藤田弓子、朝原靖貴、加賀まりこ、桜井稔、柴田真生子、
初音礼子、西山嘉孝、芦屋雁之助、蟹江敬三、殿山泰司、八木昌子


【あらすじ】 舞台は昭和三十一年の大阪。河っぷちの食堂に毎日立ち寄っていた荷車のオッチャンが事故で死んだ。ある朝、食堂の息子、信雄は置き去りにされた荷車から鉄屑を盗もうとしていた少年、喜一に出会った。喜一は、対岸に繋がれているみすぼらしい舟に住んでおり、信雄は銀子という優しい姉にも会った。信雄の父、晋平は、夜、あの舟に行ってはいけないという。しかし、父母は姉弟を夕食に呼んで、暖かくもてなした。楽しみにしていた天神祭りがきた。初めてお金を持って祭りに出た信雄は人込みでそれを落としてしまう。しょげた信雄を楽しませようと喜一は強引に船の家に誘った。泥の河に突きさした竹箒に、宝物の蟹の巣があった。喜一はランプの油に蟹をつけ、火をつけた。蟹は舟べりを逃げた。蟹を追った信雄は窓から喜一の母の姿を見た。裸の男の背が暗がりに動いていた。次の日、喜一の舟は岸を離れた。「きっちゃーん!」と呼びながら追い続けた信雄は、悲しみの感情をはじめて自分の人生に結びつけたのである。船は何十年後かの繁栄と絶望とを象徴するように、ビルの暗い谷間に消えていく。 (参照:goo映画より)
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by claranomori | 2012-02-15 14:37 | 文学と映画★文芸・史劇
b0106921_182130.jpg★好きな映画の原作は出来るだけ読むようにしている。原作と映画共に大好きな作品の一つに『地下鉄のザジ』があります。作者はレイモン・クノー(Raymond Queneau:1903年2月21日~1976年10月25日)で1959年に刊行。翌年1960年にルイ・マル監督の映画化により大ヒットとなり、今も色褪せない愛すべき映画です。80年代に読んだものは今はもうなくなってしまい、手許にあるのは中公文庫版で、翻訳はこれまた大好きな生田耕作。ジャック・カルルマンの挿絵も愉快です。ずっと以前に映画『地下鉄のザジ』のことを書いたのですが、今日はマルグリット・デュラスとの対話に興味深いお話があるのでそのことを。

アナイス・ニンのことに触れながらレイモン・クノーが浮かびました。まったく作風は異なり、私はレイモン・クノーの方が作品は好きですが、お金を稼がなければ生活できない貧窮の中、次から次へと書いたアナイス・ニン。レイモン・クノーはじっくり時間をかけて書き上げる。この『地下鉄のザジ』の完成には6年を費やしている。それ以前の名著『文体練習』(1947年)も5年かけて完成。レイモン・クノーもある意味総合芸術家のようなお方であるけれど、「言葉」への拘り、執着は当時のシュルレアリスムやヌーヴォー・ロマンの作家たちの中でも異才を放っていたお方に想う。言葉あそびをユニークな調子で重ねてゆく。数学者でもあるレイモン・クノーならではの前衛的文学遊戯のようでもある。英国のルイス・キャロルにも数学的な言葉あそびの感覚があるけれど、「言葉」というものに徹底して向かい合う姿勢は凄まじく、小説という骨格を根底から覆すかのような功績は大きい。

詩は言葉で作るものだ」とステファヌ・マラルメは云った。それは重要なことだと想ってやまない。そこで、詩人でもあるレイモン・クノーが『地下鉄のザジ』を発表直後の、マルグリット・デュラスとの対談より。

デュラス:どういうご意見か(小説について)お聞かせいただけますか?
クノー:小説は、いってみればソネットのようなものです。もっとはるかに複雑なものであるとすらいえましょう。

デュラス:当今の作家は早く書き過ぎるとお思いになりますか?
クノー:そう。嘆かわしいことです。彼らのために嘆かわしいことです。これは不幸にも暇がありすぎる作家たちの病いです。暇を有益に使うことは、ご承知のように、たいへんむずかしいことです。だから、皆んなは働き、書きまくります。自分の時間をすべて自由に使えて、しっかり腰のすわった、本物の作品をつくり出せる作家はごく稀にしかいません。なんだか自分のことを弁解しているみたいですが。だって、私は一つの小説(『地下鉄のザジ』)を書くのに六年もかかったのですから。

書くことは苦渋であるとも語っているレイモン・クノーは、それでも言葉に拘り時間をかけて作りあげてゆく。この風変わりな作家の小説観が窺え、それもこれまた大好きなマルグリット・デュラスとの対話によるものであることに、私の心は微笑んだようです。
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●この二つの絵はジャック・カルルマンによる挿絵です♪

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by claranomori | 2012-01-17 18:29 | 文学と映画★文芸・史劇
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前述のアナイス・ニン繋がりですが、アナイス・ニンなる女性作家の存在を知るきっかけは、フィリップ・カウフマン監督の1990年映画『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』なのです。80年代の同時代性としての英国映画は美しき男優が続々登場する時期でした。そんな中にダニエル・デイ=ルイスも居られ、ミラン・クンデラ原作の映画化『存在の耐えられない軽さ』(1988年)を観ることでフィリップ・カウフマン監督の名を知りました。この映画も好きなのですが、続いて公開された作品が『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』で感動作という程ではないのですが女性二人と男性一人という関係、お衣装などの美しさは印象強く残ったものです。けれど、私としてはジューン・ミラー役のまだ20歳頃のお若き日のユマ・サーマンとアナイス・ニン役のマリア・デ・メディロスを鑑賞する映画であったようにも想います。ヘンリー・ミラー作品は熱心には読んでいないのですが、クロード・シャブロル監督の『クリシーの静かな日々』(1990年)など、映画を通じての親しみ方を多少している程度です。何故だか奥様のジューン・ミラーへの興味の方が強いのは今もまだ変わりません。
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●ジューン・ミラーを演じるユマ・サーマン♪
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●実在のジューン・ミラー♪

公開当時の映画雑誌だったと想うのですが、ユマ・サーマンのインタビューで、このジューン・ミラーを演じることの困難さを語っていました。それでも降りることなく演じられたのはロバート・デ・ニーロの助言があったこと、劇中のヌード場面は他の女性の代役であると語っていたことも、この映画と同時に甦る記憶でもあります。

ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女/HENRY & JUNE
1990年・アメリカ映画
監督:フィリップ・カウフマン 製作:ピーター・カウフマン
原作:アナイス・ニン
『ヘンリー&ジューン』 『アナイス・ニンの日記 1931-1934』
脚本:フィリップ・カウフマン、ローズ・カウフマン
撮影:フィリップ・ルースロ 音楽:ジャン・ピエール・ルー
出演:マリア・デ・メディロス、フレッド・ウォード、ユマ・サーマン、ケヴィン・スペイシー、ジャン=フィリップ・エコフェ、リチャード・E・グラント、フアン・ルイス・ブニュエル、フェオドール・アトキン、モーリス・エスカルゴ
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●ヘンリー・ミラー役のフレッド・ウォードと
アナイス・ニン役のマリア・デ・メディロス♪

★アナイス・ニンの『ヘンリー&ジューン』及び『アナイス・ニンの日記 1931-1934』を基に、彼女と無名時代の作家ヘンリー・ミラー、そして彼の妻ジューン・ミラーとの妖しい三角関係を官能的に描いたもの。舞台は1931年のパリ。銀行家ヒューゴーの妻アナイス・ニンは、無名の作家ヘンリー・ミラーと出会う。二人は互いに惹かれ合うが、アナイスはその後ニューヨークからやって来たヘンリーの妻ジューンにも強く惹かれてゆく。そうした妄想と現実の体験が次第に文学的資質を開花させてゆくことになる。やがて、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』が発表され、再びヘンリーのもとを訪れたジューンにも愛を告白するアナイスだがジューンは二人の関係を知り傷つき去ってゆく...。大まかなあらすじはこんな感じです。

ユマ・サーマンがとても好きなので、もう少し出演シーンを望んでいたことも想い出します。ユマ・サーマン出演作は今も可能な限り追っています。ユマ・サーマン、マリア・デ・メディロス共にクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994年)にも出演。マリア・デ・メディロスも最近は母親役も多くなっており、最も新しく鑑賞したものはジャン=ピエール・アメリス監督の『デルフィーヌの場合』(1998年)以来の『ベティの小さな秘密』(2006年)です。フレッド・ウォードだとメリル・ストリープの夫役の『誤診』(1997年)とロバート・アルトマン監督の『ショート・カッツ』(1994年)が印象強く残っています。映画はやはり大好きなので、まだまだ好きな映画の感想等を気長に綴って行こうと想います。
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by Claranomori | 2012-01-16 11:28 | 文学と映画★文芸・史劇
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★フランソワ・トリュフォー監督の1966年作品『華氏451』。トリュフォー映画としては初めての英語圏作品であり、異色作だと想います。初めて観たトリュフォー映画は『黒衣の花嫁』でしたので、最初はこの『華氏451』がトリュフォー監督作品だとは思いませんでした。初見はテレビ放送で、ジュリー・クリスティとオスカー・ヴェルナー共に初めて知った想い出深い映画でもあります。原作がレイ・ブラッドベリの『華氏451度』であることも後に知った程、まだ10代の私にはほとんど資料的なものは皆無でした。けれど、その映像(色彩)に惹きつけられ、また、ジュリー・クリスティが直ぐに好きになりました。再度観返してから感想を書こうかと想いましたが、今の時代に共通するものを何となく感じるので、映画の細部の記憶はおぼろげで、映画とレイ・ブラッドベリの原作が混淆しますが思いつくままに大まかなお話を。
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主人公のモンターグ(オスカー・ヴェルナー)と、妻リンダと隣家の少女ソラリス(ジュリー・クリスティの二役)の三人はやはり印象的。近未来という設定ながら私にはSF映画であるけれど其処に留まる描き方ではないように想う。モンターグは書物を読むことを禁じられた世界での焚書官で、消防士であるファイアーマンの任務は書物を発見してはそれらを焼く作業である。華氏451度とは摂氏220度で、紙の自然発火温度のこと。瞑想すること、思考を促す行為を禁じている社会に於いて、読書なるものは当然必要悪であり、犯罪行為である。ゆえに、この焚書官であるモンターグの任務は重大。しかし、本に興味を抱く隣家の少女ソラリスと会うなかで、なにかしら心の動揺が生じてゆくことを感じる。ある密告により老女が自ら本と共に焼身自殺をする。この場面はやはり印象強く残っている。少女ソラリスも事故死し、話し相手を失ったモンターグは書物を読み、思考する喜びを得る。妻のリンダはテレビに夢中で愚かな女性と描かれているが体制に従って生きている人々である。書物愛好家の教授との出会いなどもあるが、モンターグは妻の密告により自分の本を焼く日が訪れた。本を焼いた後、モンターグは逮捕される前に逃亡する。その行き着いた先で、本を暗唱して口伝えにその知識を共有する人々のグループに合流する。戦争が始まり、都市にミサイルが投下される中、ようやくモンターグは新たな使命を感じるのだった。
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★レイ・ブラッドベリの『華氏451度』は1953年に発表された。この時代のアメリカはマッカーシー旋風の頃で、その反感からこの『華氏451度』を書くことにもなったという。マスコミによる制御、映画界も標的となり、多くの赤狩りへと発展してゆく頃のこと。情報操作、制御による愚民政策へユーモアを持った反抗として素晴らしい作品だと想う。古くから、ある権力の下に焚書行為は世界中で行われて来た。日本も第二次世界大戦後、GHQによって焚書された書物がある。焼かれる運命の書物を愛好家たちが諳んじ共有する共同体。私がもしもこのブラッドベリが描いた世界に生きているとすればその人々と共に行動したい。その想いは絵空事ではなく、今の日本も一般庶民の手に負えない大きな権力や組織がメディア工作している。近くて遠い国に囲まれた我が国日本の危機意識の薄さを感じながら、政治的イデオロギーとやや距離を置きながら、残された人生、私が私である為にも我が国日本、国家とは何かと考えながら生きてゆきたい。東日本大震災は大きな転機であり、悲劇に終わらせてはならないと想います。日本人の忘れかけていたもの、その尊い文化や美を精一杯心に刻んで生きてゆこうと想っています。ある友人曰く、私は文化保守というのだそうです。しかし、今右派や左派とか云ってる場合ではない問題が山積みの正しく国難状況。日本に限らずアメリカもヨーロッパもアジアも大変な時期ですが、それら各国の優れた文化や歴史は学びの宝庫なので、私なりのバランスで美しきものとの旅路を全うできたら本望に想います。

華氏451/FAHRENHEIT 451
1966年・イギリス/フランス合作映画
監督:フランソワ・トリュフォー
製作:ルイス・M・アレン
原作:レイ・ブラッドベリ 『華氏四五一度』
脚本:フランソワ・トリュフォー、ジャン=ルイ・リシャール
撮影:ニコラス・ローグ プロダクションデザイン:シド・ケイン
衣装デザイン:トニー・ウォルトン 編集:トム・ノーブル 
音楽:バーナード・ハーマン
出演:オスカー・ヴェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック、アントン・ディフリング、ジェレミー・スペンサー、アレックス・スコット

★追記です。
映像、殊に色が鮮明に焼きついているのですが、撮影は映像の魔術師とも謳われる英国監督ニコラス・ローグでした。ニコラス・ローグ監督と云うとデヴィッド・ボウイ主演の『地球に地球に落ちて来た男』です
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by Claranomori | 2012-01-13 11:24 | 文学と映画★文芸・史劇
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★『沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇』はクロード・シャブロル監督だし、主演がサンドリーヌ・ボネールとイザベル・ユペールなのでとても期待して鑑賞した1995年作品で、これまで数回観返してもいる。原作はルース・レンデル(Ruth Rendell:1930年2月17日、イギリス・ロンドン生まれ)で、別名バーバラ・ヴァインとしても知られる英国の推理作家の1977年小説。クロード・シャブロル監督はルース・レンデル原作の『石の微笑』も2004年に映画化されているのでお気に入り作家なのでしょう。

このルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』は先述のチャールズ・ディケンズの『荒涼館』からの影響を受けたもので、この原作を友人に奨められて先に読んでいたのです。読後に残った重苦しさのようなものと同時に何かが引っかかっていたように想う。映画化されてから後に、再び原作を読み返すとその気になる部分が鮮明化されたような晴れ晴れしい気持ちにもなれたものです。主人公のユーニス・パーチマン(映画の中ではソフィー)の幼き頃からずっと背負ってきた運命のようなもの、文盲(非識字者)であるが故の苦悩を想像してしまう。ルース・レンデルもユーニスに対して大惨事を引き起こした犯罪者ながら何か根性悪の悪人とは描いてはいない。小説の冒頭からあっさりと事件の動機が記されている。

ユーニス・パーチマンがカヴァデイル一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。これという動機や予測もなく、金のためでもなければ身の安全を守るためでもなかった。

そして、もう一人の女性ジョーン・スミス(映画の中ではジャンヌ)は狂女として描かれている。しかしながら、このユーニスとジョーン(ソフィーとジャンヌ)は互いに暗い過去を持ち合わせており、心の奥底で何か共鳴し合うものがあった。小説の中でユーニスが母親を想い出す場面がある。僅か一行ながら其処で私はユーニスの少女の頃をふと考えてしまった。映画ではその後の裁判までは描かれていないけれど、あのいかにもシャブロルならではの終わり方はとても好きでもある。オペラが流れる中の二人の女性の破滅の行動は、見事に音楽的にも想えた。サンドリーヌ・ボネールイザベル・ユペールはお互いの演技を邪魔しない演技力のあるお二人であり、シャブロル作品とも縁の深い女優方でもあるので、"凄い!"と圧倒されてしまった。ジャクリーン・ビセットも10代の頃からのファンなので相変わらずお美しいお姿を拝見でき、監督、キャスト、原作、脚本、音楽と、とても私には豪華な作品に想えます。

原作に戻ると、ロウフィールド館の庭園は草木が伸び放題で荒れ果てていた、ユーニスが去ってからは。

館はいまや廃屋となり、ディケンズが、希望、よろこび、青春、平和、安息、命、ちり、もえがら、ごみ、欠乏、破滅、絶望、狂気、死、狡猾、愚昧、言葉、からす、くず、羊皮紙、強奪、先例、隠語、たわごと、ほうれん草と名付けた小鳥たちの巣にふさわしいたたずまいとなった。

と書かれており、最後はこう終える。

ちり、もえがら、ごみ、欠乏、破滅、絶望、狂気、死、狡猾、愚昧、言葉、からす、くず、羊皮紙、強奪、先例、隠語、たわごと、ほうれん草。

もうユーニスにとって、すべて手遅れなのだ。ユーニスの弁護士が、世界に、判事に検察官に警察に一般の傍聴者に、記者席でせっせとメモを取る新聞記者に、彼女が読み書きができないと語ったときに。「あなたは字が読めないのですか?」と判事に促され、ユーニスは真っ赤な顔をして顫えながら答える。そして、彼女のような障害を持たぬ人がそれを書き留めるのを見る。彼らはユーニスを励まし更生させようとするが、彼女はがんとして拒んだ。もうすべて手遅れなのだった。

きっと奇妙なことに違いない。ジョーのような状態で生きているのは!

この言葉はディケンズの『荒涼館』に登場する文盲の浮浪児ジョーの描写の一部です。19世紀のイギリスと20世紀は違うけれど、今もなお、世界中に多くの非識字者が存在するのだから、決して昔のことでもないと想う。印象的なのは、シャブロル映画の中でのソフィーは自室でとにかくテレビを観ている。読書などできないので、テレビの音声と画面、画像からことばを得ている。仲良くなるジャンヌにさえ、非識字者であることはひた隠しにしていた。どんなにユーニス(ソフィー)にとって、その事を暴かれることが怖かっただろうか...。犯罪の擁護ではなく、一人の女性の運命と破滅に至る悲劇もまた、原作、映画共に私に投げかけるものなのでした。

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沈黙の女 ロウフィールド館の惨劇/LA CEREMONIE
1995年・フランス映画
監督:クロード・シャブロル 製作:マラン・カルミッツ
原作:ルース・レンデル 『ロウフィールド館の惨劇』 
脚本:クロード・シャブロル、カロリーヌ・エリアシェフ
撮影:ベルナール・ジツェルマン 音楽:マチュー・シャブロル
出演:サンドリーヌ・ボネール、イザベル・ユペール、ジャクリーン・ビセット、ジャン=ピエール・カッセル、ヴィルジニー・ルドワイヤン、ヴァランタン・メルレ、ジュリアン・ロシュフォール

【あらすじ】 サン・マロの外れの大きな屋敷に住むカトリーヌ(ジャクリーン・ビセット)が、新しい家政婦ソフィー(サンドリーヌ・ボネール)を雇った。夫ジョルジュ(ジャン=ピエール・カッセル)や連れ子のジル(ヴァランタン・メルレ)もソフィーの仕事に満足する。大学生で週末だけ家に戻ってくるジョルジュの連れ子ミリンダ(ヴィルジニ・ルドワイヤン)は親切だ。だが実は彼女は非識字者で、そのことに強烈なコンプレックスを感じ、ひた隠しにしていた。郵便局員のジャンヌ(イザベル・ユペール)は彼女に興味を持ち、やがて親友になり、テレビを見るため度々屋敷に来た。ジャンヌはかつてわが子を殺したという噂のある女で、ブルジョワ一家に強烈な敵意を持っていた。彼女を毛嫌いしているジョルジュは、ソフィーに二度と家に連れてこないように言う。一方ソフィーにも、痛風で寝たきりだった父を殺した嫌疑をかけられた過去があった。二人の女は奇妙な共犯意識に結ばれる。ある日の午後、ミリンダが突然帰ってきて、ロンドンにいる恋人のジェレミーに電話をするという。ソフィーはその電話をこっそり盗み聞きする。ミリンダは妊娠していたのだ。その後、ミリンダがふとしたことからソフィーが非識字者であることを見抜いた。「読み方を教えてあげる」というミリンダに、ソフィーは口外したら妊娠のことを父親に暴露すると脅す。ショックを受けたミリンダは一部始終を両親に明かし、ジョルジュは即刻ソフィーに解雇を言い渡す。一週間以内に出ていくよう言われたソフィーを、ジャンヌが一緒にやっていこうと誘う。二人はソフィーの荷物を取りに屋敷に戻る。一家はテレビを見ていた。その隙に屋敷を見て回るうち、ジャンヌの行動は次第に常軌を逸し、二人は夫婦の寝室を荒らし、壁に飾られた猟銃を手に取る。ちょうど二人は台所でジョルジュを、居間でカトリーヌとミリンダ、ジルを次々と射殺。ジャンヌは記念にと居間にあったラジカセを持って車に戻る。後はソフィーが偽装工作をし、警察に強盗事件として通報する手筈だった。ところが表の通りでジャンヌの車のバッテリーが上がり、暗い夜道に立ち往生しているところを、司祭と愛人が乗った車が衝突。パトカーの音を聞いて表に出たソフィーは、ジャンヌの死体が運ばれていくのを見る。そして警官が車の中のラジカセを再生した。それはミリンダがちょうどテレビで見ていたオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を録音しようとセットしていたものだった。軽妙なセレナーデの途中で、突然銃声が響く。そして「うまくやったわ」というジャンヌの声が……ソフィーは黙ったまま夜の田舎路を去っていく。

主演のサンドリーヌ・ボネールとイザベル・ユペールは、揃って1995年ヴェネチア国際映画祭の主演女優賞に輝き、さらにユペールは同年度のセザール賞女優賞も獲得した。 (参照:goo映画より)

★追記です。
ユーニス・パーチマン(ソフィー)は、読み書きが出来ない。故に大惨事を引き起こしてしまうことになったのですが、家政婦としては完璧に仕事をこなすのです。なので、彼女が去ってしまった後の庭園は荒廃した姿となった。彼女にとって、あたかも肉体の一部が欠落しているかのような不自由さを想います。それ故に、その欠如した部分を補うために、その他のことを精一杯する。知られたくない最大の秘密が法廷でさらに知らされてしまった。更生して生きてゆく道も残されていたのに、彼女はがんとして拒んだ。それほどまでに、彼女にとって文盲であるということは知られたくはない秘密であったこと、そうした一人の人間の幼き日から今日までの人生を想像してみると、ディケンズの描写のように、"きっと奇妙なことに違いない。ジョーのような状態で生きているのは!"と想うのです。
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by claranomori | 2011-12-18 22:34 | 文学と映画★文芸・史劇
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★以前『少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ:NADINE NORTIER) ロベール・ブレッソン監督』として綴った『少女ムシェット』を再びというか追記です。重く悲惨で残酷な僅か14歳の生。ロベール・ブレッソン監督が『田舎司祭の日記』の原作者でもあるジョルジュ・ベルナノスの原作を今作でも映画化したもの。14歳の少女ムシェット(ナディーヌ・ノルティエ)はどうしようもなく救いがない。大体名前からして・・・。どうしてここまで!という程。貧困や苦悩なら誰にも大なり小なりある。自分だけが世界で一番不幸者のように思い込むこともあるだろうけれど、探せば救いは見つかることが多いと私は信じている。でも、このムシェットに関してはもう孤独で死しか救いがなかったのだろう...と思えてしまう。飲んだくれの父、病床の母、まだ小さな乳離れしていない赤ん坊の弟、そして兄と貧しい生活を送っている。父はまったく働く気持ちもなく息子にお酒の密売をさせている。何もしないこの父はアル中で凶暴でムシェットに対して信じられないほどの八つ当たりをする。そんな環境(家庭)から学校へ通うけれど、これまた、学校でも級友や教師からさえ嘲笑いの対象なのだ(もう憤りとやるせなさで痛い!)。お友達もいない孤独なムシェットが、移動遊園地のバンピング・カーで遊ぶシーンだけは楽しそうで好きなシーン。後ろから男の子がバンバンと車をぶつけてくるのだけれど、相手にしてもらっていることに喜びを感じているのだ、いじらしい少女の心。でも、まだまだ不幸は襲ってくる。雨の日の森で密猟をしている男性アルセーヌは森番を殺したと言い、そのアリバイ工作をムシェットに頼む。てんかん持ちで発作を起こしたアルセーヌが落ち着くと、その場にいるムシェットを奪ってしまう...。怖かっただろう...とても!逃げ出すように家に戻り母にだけは伝えたかったけれど、弟にミルクを飲ませなければならず、父も兄もおらず、母は死んでしまう。もう、これでもかというくらいの痛めつけである、悪意の大人たちや社会による。そして、老婆に白いモスリンのお洋服を貰い、崖(土砂)の上から下の池に向かってそのモスリンを体に合わせて転がってみる。そして、また上まで上り、今度は加速をつけて転がってみる。そして、再度さらに加速をつけて転がりドボン...と池の音と白いモスリンが浮かんでいる。ムシェットの死の描き方まで、冷徹な眼差しでこの冷たさはヒリヒリと突き刺さり胸が痛い。台詞もほとんどないモノクロームな映像。音と冷厳な視線の徹し方。
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『少女ムシェット』は、人が故意に眼をそむけようとしている残酷さと悲惨さを暴露しています。残酷さはいたるところにあります。戦争、拷問、強制収容所、老人を殺害する若い男女などに見られます。オスカー・ワイルドは、「普通の残酷さは単純に愚かさから生じています。それはイマジネーションが完全に欠乏しているからです。」というような意味の事を述べています。確かにイマジネーションの欠乏が残酷さにつながります。第二次世界大戦が勃発した頃、私は軍の宿営地で1人の兵士が家兎の皮を剥いでいるいるのを見て、ギクッとさせられたことがありました。 

ロベール・ブレッソン

「残酷さと悲惨さの暴露」とブレッソン監督のお言葉。野兎が狩られるシーンなどもそういう残酷さのひとつのようだし、ただ一人だけ優しい食料品店の女主人がコーヒーとパンをムシェットに与えてくれる。ムシェットがカップをひっくり返してしまった途端!掌を返したように罵声を浴びせるシーンも怖かった...こういう人いるように思う。愚劣な大人たちや社会の犠牲者のような14歳の少女の死。これはある意味、殉職者のようにも思える。孤高の映像詩人のロベール・ブレッソンの映画は重く厳格なものが多いけれど、私はとても好き。観なくてはならない映画だと思ってしまう。ベルナルド・ベルトルッチ監督とジャン=リュック・ゴダール監督はこの映画を絶賛していたそうだ。ゴダールは『ウィークエンド』でジャン=クロード・ギルベールを起用している。ベルトルッチは『ドリーマーズ』で引用している。イングマール・ベルイマン監督は「さっぱり、分からん。最悪だ。」と仰ったという。賛否両論の作品であり、全く商業的な世界から遠くにいる(ブレッソン監督というお方がそうなのだろうけれど)。古い作品をこうして私は再見してはなにかしら考えることができる。考える映画は本来好きなのだと思う。映画は最良の娯楽だという前提で☆
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by claranomori | 2011-08-13 15:55 | 文学と映画★文芸・史劇
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★この『世にも怪奇な物語』は何年かに一度観たくなる映画のひとつ。このような”また観たい”という作品の多くの印象強いシーンは幾度観ても新鮮に残る。そして、再発見もいつもあるので楽しい。そんな感じでこの1967年の3人の監督作品からなる映画『世にも奇怪な物語』。当初はアラン・ドロンとブリジット・バルドーの共演が観たくて。

この映画を既にご覧の方々はそれぞれの感想をお持ちで好きなお話もそれぞれだと思う。3つのお話からなるオムニバス作品で、私は順番通りに好きというのか強烈な怖さが残る。でも、どれも好きなのだけれど。原作はエドガー・アラン・ポーなので怪奇幻想なお話。それをフランス、イタリアを代表する名匠方が製作、さらに配役も豪華!
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原作:エドガー・アラン・ポー
第一話 『黒馬の哭く館』 監督:ロジェ・ヴァディム
出演:ジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダ、フランソワーズ・プレヴォー
第ニ話 『影を殺した男』 監督:ルイ・マル
出演:アラン・ドロン、ブリジット・バルドー、カティア・クリスチーヌ
第三話 『悪魔の首飾り』 監督:フェデリコ・フェリーニ
出演:テレンス・スタンプ、サルボ・ランドーネ
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こんなに豪華な顔ぶれ。さらに撮影・音楽も監督のお馴染みの方々。ジェーン・フォンダはこの当時はヴァディムの奥様だったので、ブロンドに染めた美しき女性勇者のよう。実の弟さまのピーター・フォンダと共演。流石に美しい映像。次はルイ・マル監督で、アラン・ドロンとB.B.(ブリジット・バルドー)の共演は華やかで、でも怖いドッペルゲンガーもの。アラン・ドロンはここでも美しく、B.B.も素敵。さて、最後はフェリーニ監督でテレンス・スタンプ。私は暗がりとスピードという設定だけで恐怖なので、どうしてもこの最後のお話が怖くて怖くて...さらに、最後にぼんやり出てくる白いボールを持った美少女の幻影が輪をかける。この感覚は私には恐怖映画。そして、テレンス・スタンプは英国の素晴らしい男優さまなのだけれど、国際的に今も現役で活躍されている素敵な個性派。全くの個人的なイメージながら、イタリア映画との相性が良いように感じていて観たものは全て好き♪
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世にも怪奇な物語:TRE PASSI NEL DELIRIO
1967年・フランス/イタリア合作映画
監督:ロジェ・ヴァディム、ルイ・マル、フェデリコ・フェリーニ
撮影:クロード・ルノワール、トニーノ・デリ・コリ、ジュゼッペ・ロトゥンノ
音楽:ジャン・プロドロミデス、ディエゴ・マッソン、ニーノ・ロータ 
出演:ジェーン・フォンダ、ピーター・フォンダ、アラン・ドロン、ブリジット・バルドー、テレンス・スタンプ、サルボ・ランドーネ

※以前書いたものに少し加筆と画像を追加いたしました♪
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by claranomori | 2010-12-02 06:06 | 文学と映画★文芸・史劇