あまりにも私的な少女幻想、あるいは束の間の光の雫。少女少年・映画・音楽・文学・絵画・神話・妖精たちとの美しきロマンの旅路♪


by chouchou
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カテゴリ:愛の花束・日本の抒情( 40 )

b0106921_14532712.jpg★豊島与志雄は(1890年:明治23年11月27日~1955年:昭和30年6月18日)は、福岡県朝倉生まれの小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。殊にユゴーの『レ・ミゼラブル』やロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』の翻訳家として有名なお方。大正期から作家として活躍していた豊島与志雄は、自然主義やリアリズムや私小説な形式に飽き足らず、実験性に富んだ作風で知られていたが、戦中から「近代説話」と称した説話体に象徴的、或いは神秘的な物語をはめ込む小説話法を試みていた。敗戦後の1946年、一気に鬱積していたものを発散するかのように、毎月「近代説話」の副題の短編を発表してゆく。この『白蛾』はその中の一つで代表作でもあると思います。初出は1946年2月、生活社より刊行。けれど、作家としてだけでは生活できず、教師としても働き、長年困窮生活であったそうです。

『白蛾』は一種の焼け跡小説であり、豊島与志雄ならではの幻想文学でもあると思います。焼け跡の菜園に東京の農村化をみる。村育ちの少年時を中年期の今、焼け跡暮らしに幻視する。比較的空襲の被害の少なかった谷根千(谷中・根津・千駄木)の谷中墓地にまだ五重塔があった(後に放火により焼失)。この五重塔の下で主人公の岸本と美津枝は逢引きをし一夜を過ごす。美津枝は岸本が通勤の折に見かけ惹かれていた女性である。一週間後に再会の約束をするが彼女は現れない。

浅草で空襲に逢い、良人やその両親を失い、自分も危うく死ぬところでしたが、不思議に怪我一つしないで助かり、今は知人の家に間借りして、兵隊として南方に行ったまま消息不明の弟を待っている

美津枝の境遇はこのように語られている。この当時の日本での間借り生活は普通のことで、二家族三家族が雑居生活の家はざらであったのです。待っても現れないので、その彼女の間借りの家を男性は訪ねる。そこの善良そうな老人は語る。

「まったく、籔から棒の話で、私共でも驚きましたよ。もっとも、あのひとは、ここが少し・・・。」
老人は人差し指で額を叩きました。
「少し変でしてね、時々おかしいことがありましたよ。静岡へ行く少し前など、毎日、ひどくおめかしをして出かけましたが、或る晩は、夜更けに戻ってきて、なんだかしくしく泣いているようでした。それが、ふだんは正気なもんで、はたからは何のことやらけじめがつきませんでね。元からあんなじゃなかったんでしょうが、いろいろ不幸が続いたもんですから・・・・・気の毒でしてね。」

この女性は戦災で頭がおかしくなった白痴美のお方で、今の境遇から連れ出してくれる人を毎日五重塔の下で待っていたのです。白蛾は女性の神秘的な比喩としての描写でしょうか。嘗てお世話になったお千代という女性と美津枝が重なり合う幻視的な心模様。戦中戦後の激動の中で生きた人々の姿を想うことが好きな私は、この美津枝さんが好きです。また自責の念に捉われ、さらに美津枝さんをいとおしく思う岸本さんの心も。

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●戦後GHQ占領期日本● 
(昭和21年:1946年2月) 覚え書き

第一次農地改革を実施
軍人恩給停止(53年に復活)
マッカーサーがGHQ民放局に憲法草案の作成を指示
(三原則は象徴天皇、戦争放棄、封建制度の廃止)
天皇陛下の全国巡幸が開始される
タバコ「コロナ(10本入り10円)」が発売
東京宝塚劇場を「アーニーパイル劇場」と改称
玄洋社など45団体に対し、軍国主義・超国家主義として解散命令
東京の山手線でGHQ専用車両の運行開始
公職追放令公布
アメリカ映画「春の序曲」「キュリー夫人」が、戦後はじめて封切られる。
(入場料10円 *邦画は3円)

※日本の歴史に於いて、初めて、唯一の、この7年弱(昭和20年:1945年8月~昭和27年:1952年4月)と云う連合軍(GHQ)による占領下という時代。この時期は検閲も厳しい中、作家たちは貧しい紙に筆を走らせた。その中から得られるものは尊いと思います。「戦後体制」は未だに続いている。脱却するにはやはり当時の事を知りたいのです。戦後68年、決して遠い時代のことではない。その時代を体験している方々もまだまだご健在です。日本の近代史、現代史を学ぶこと無くして、今の鬱積した国内の問題、これからの日本、諸外国との関係などを考察することはできない、そのように感じます。なので、自分の器内で読んだり観たり聞いたりして、考えてゆきたいと思います。
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by claranomori | 2013-05-04 15:33 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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★川端康成(1899年:明治32年6月14日~1972年:昭和47年4月16日)の『美しい日本の私』 という講談社新書から引用させて頂きながら日本を憂う日々です。この川端康成の『美しい日本の私』は1969年に刊行されたもので、前年1968年にノーベル文学賞を受賞された折の講演文です。なのでそんなに長い文ではないのですが素晴らしいのです。日本の美を作品の中で描き続けて来られた文豪の晩年は、1970年の三島由紀夫の死とも呼応するかのようで感慨深いものがあります。

一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思はせるのです。開き切った花を活けてはならぬと、利休も教えてゐますが、今日の日本の茶でも、茶室の床にはただ一輪の花、しかもつぼみを活けることが多いのであります。冬ですと、冬の季節の花、たとえば「白玉(しらたま)」とか「侘助(わびすけ)」とか名づけられた椿、椿の種類のうちでも花の小さい椿、その白をえらび、ただ一つのつぼみを生けます。色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持ってゐます。

引用: 川端康成 『美しい日本の私』 より

川端康成は、この九年間座り続けながら思考沈黙の果てに悟りの境地に達したとされる、達磨大使の道歌を例えに無念無想の境に入り、「我」をなくして「無」になる修行に触れています。この「無」は西洋風の虚無ではなく、寧ろその逆の、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのだと。思索の主はあくまでも自己、さとりは自分ひとりの力で開かねばならなず、論理よりも直観です、とも。

問へば言ふ間はねば言はぬ達磨どの
心の内になにかあるべき
一休

もうひとつ一休の道歌を例えに道元や、日本の花道や庭園の「枯山水」に触れています。「山水」といふ言葉には、山と水、つまり自然の景色、山水画、つまり風景画、庭園などの意味から、「ものさびたさま」とか「さびしく、みすぼらしいこと」とかの意味まであり、茶道が尊ぶ「わび・さび」は勿論、寧ろ心の豊かさを蔵してのことであり、却って無辺の広さと無限の優麗とを宿しているのだ、と述べています。

心とはいかなるものを言ふならん
墨絵に書きし松風の音
一休

そして、最初に引用させて頂いた『美しい日本の私』 での川端康成の言葉。私はとても好きです。この「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持ってゐます」とは何とも日本人的美意識でしょう!けれど、今の日本はこの美学からかけ離れ、きっといつの日にかこのような日本は失われてゆくのではないだろうか、と懸念を抱く今日この頃なのです。以前に岡倉天心の 『茶の本』と日本の美を考えていた折からさらに、この憂国の念は深まるばかりです。進歩と変化は必要だと想うのですが、戦後アメリカによる日本解体の威力はやはり大成功であったのだ。アメリカン・ドリーム、ましてや北朝鮮の地上の楽園などは嘘だったのに、何かを信じながら戦後焼け野原になった日本を、ここまで立て直してくださった先輩方に敬意を表する気持ちと重なり合う複雑な想いが募ります。

●追記●
「美しい日本」と安倍首相がおっしゃる。先の衆議院選挙での自民党のポスターはどう書いていたのか?「ウソつかない」「TPP断固反対」「ブレない」「日本を耕す」と。でも先日TPP参加表明されました。よく分からない会見のまま突き進むことに懸念。川端康成の云う「美しい日本」とは「かつての日本」、「かつてあった日本」なのではないでしょうか。「TPPの交渉参加に反対!」「比例代表は自民党へ」と云いながら、まるでペテンのようなTPP交渉参加、そして日中韓FTAの交渉も今月26日から開始されると報道。日本は世界に開かれているではないですか。私は決して反米ではないのですが強国アメリカに追従の道は、もうそろそろ軌道修正する時ではないのだろうか、と想うのです。自国を守ることすら出来ない日本、伝統や文化を守ることが出来ない今の日本を、先人たちはどう想われるでしょう。あゝ、憂国の日々☆

b0106921_1264344.jpgb0106921_1262022.jpg嘘ばっかり!TPPも日中韓FTAも反対です。もっと説明と議論を!・・・でも邁進の道のようですね。日本が再び経済バブル?希望の光だとか。違う気がします。「美しい日本」っていったい何?

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by Claranomori | 2013-03-20 23:57 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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★村岡花子(明治26年:1893年6月21日~昭和43年:1968年10月25日)というと『赤毛のアン』の翻訳者として有名なお方で、エレナ・ポーター、ルイーザ・メイ・オルコットの著作の翻訳も手がけた児童文学者でもある。村岡花子は、明治時代のミッション・スクールの寄宿舎へ、10歳の折に父に手を引かれ、麻布、鳥居坂の桜並木を歩いていた。七分咲きの桜のレース越しに見える空は青く澄み、枝の間にはガス燈が文明開化の名残をとどめる。時は明治36年(1903年)の春のこと。平民の花子には雲の上の人々であった華族や富豪の娘たちが多く学ぶ東洋英和女学校という、カナダ人宣教師によって設立されたミッション・スクールであった。花子は奨学生(給費生)として、クリスチャンである条件以外に、在学中は麻布十番にある孤児院の日曜学校での奉仕活動が義務付けられていた。そして、学費の免除の代わりに、学科の成績が悪ければ即、退校という境遇。カナダ人宣教師の教育はとても厳しいものであったという。

そんな少女時代を送った花子は、後にルーシー・モード・モンゴメリの「赤毛のアン」シリーズ全10巻を訳了し、新潮文庫の全訳と、講談社の抄訳、それぞれのシリーズが出版、という大偉業に達する。『赤毛のアン』『アンの青春』『アンの愛情』『アンの友達』『アンの幸福』『アンの夢の家』『炉辺荘のアン』『アンをめぐる人々』、そして、物語の主人公をアンから、アンの6人の子供たちの世代に移した『虹の谷のアン』『アンの娘リラ』を世に送った。

同じ時代を生きた人々との交流を想う。友人たちの思い出が書斎にはいっぱい。その中に、年下の林芙美子(明治36年:1903年12月31日~昭和26年:1951年6月28日)から贈られた直筆の詩が額装して壁に飾られているそうです。原稿用紙に、万年筆で丸い癖のある文字で。

風も吹くなり
雲も光るなり
生きてゐる幸福(しあわせ)は
浪間の鷗のごとく
縹渺とただよい

生きてゐる幸福(こうふく)は
あなたも知ってゐる
私も知ってゐる
花のいのちはみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雪も光るなり

詩:林芙美子
『アンのゆりかご』
より

人気作家となった林芙美子は、いつも何かに追われ心のゆとりとは無縁であった。あらぬ噂を立てただの、常に泥臭い評判が付き纏い、成金趣味と周囲は冷笑していた。けれど、村岡花子の記憶の中では、友だちから誤解されて辛いと涙ながらに訴えていた芙美子、雑談では煙草をふかし「家庭なんて」とうそぶきながら大事にしていた家族、「母が村岡さんのファンなのよ」と云って母親を紹介してくれた芙美子・・・の可愛い姿だけ。恐らく噂の半分は本当で、もう少し心のバランスがとれていれば、あんなに早く命を落とさずにすんだのではないかと惜しまれるが、芙美子の過剰なまでの欲望が人々の心に訴える優れた作品を書かせていたのだろう。またこの詩に内面の真実があるのだろうとも。私もそんな風に想えます。時代と闘いながら生き抜いた明治の女性作家たち☆
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by claranomori | 2012-06-09 03:08 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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何か大切なものを
忘れてきたような気がして
ときどきふっと
少女にもどりたくなるときが
あります

詩:イソ・ヒロミ

★イソ・ヒロミとはPHP編集部のペンネーム。牧野鈴子とは昭和26年3月24日生まれ、熊本県出身のイラストレーター、画家。80年代初めに出版された絵本のような詩集をいくつか買った。牧野鈴子さんのお名前は他にも好きで買っていた雑誌などでも拝見するようになった想い出深いお方のおひとり。80年代前後...どうしても往来する蒼い刻。そんな時を共にして来た、結構色褪せてきた小さな書物やレコードたち。映画や音楽、本や画集を眺めることが大好きで今に至る。"なんとなく気になるなっ"という感覚だけを頼りに手にしてお店のレジへ向かう。私はあまり立ち読みが好きでなくてゆっくり読みたいと想うもので、その分だけ帰り道の楽しみも味わえたように想う。この詩を読んだ折は10代の子供で大人になりたくない気持ちが強固であった頃。今の私がこの詩を再び読む。少女であった頃は「少女」よりも少女でなくなる年齢や社会というものへの抵抗が大きく心を占めていた。今の私、「何か大切なもの」を想うとこうした私という小さな軌跡を訪ねると出会える気がするのです。戻れることなどなく、けれどあの刻に私の核なるもの、格たる大切な何かを見つけにゆくことならどうにか♪

流れ
流れて
流されて
時は白紙で
消えていく
あせりが
白紙を
にらんでる

詩:イソ・ヒロミ 挿絵:牧野鈴子


少数派ブログながら参加してみました♪
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by claranomori | 2012-03-20 23:27 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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★高畠華宵(明治21年:1888年4月6日~昭和41年:1966年7月31日)は愛媛県宇和島市生まれの画家。大正から昭和初期にかけての広告絵や挿絵などで、新聞小説や少年・少女雑誌を中心に活躍された。とりわけ華宵風の美少女画は一世を風靡したという。華宵の描く美少女たちは高貴かつ妖艶でもあった。透き通るような肌、ぬれた眼差し、豊満な頬の彼女たちは「華宵好みの君」と流行歌にまでなり、一種の社会現象となる。昭和5年に村田社から発売された華宵便箋は、少女たちの熱狂的な支持を得、皇族の令嬢方もお忍びで買いもとめていたという伝説も生む。当時の華宵人気を窺うことのできるエピソードです。高畠華宵の描く少女たちの魅力はやはりあの眼差しに強く感じます。少年画も多く描かれているのですが、華宵の描く少女たちは時折ドキドキする程に中性的にも感じます。この2つの画は昭和初期に一世風靡したとされる美しい便箋より、上の画は「ばらの幻想」で、下の画は「カルメン」と題されたものです。これらの美麗な便箋が当時の少女たちの心をどんなに癒していたことでしょう。古き良き日本の浪漫にうっとりいたします♪
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by claranomori | 2012-02-24 15:41 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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僕は政治的には無知な国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が起こった時には、必ずもしかくかくだったら事変は起こらなかったろの復讐だ。はかない復讐だよ。この大戦争は一部の人達の無知と野心から起こったか、それさえなければ、起こらなかったか。

どうもぼくにはそんなおめでたい歴史観は持てないよ。ぼくは歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。ぼくは無知だから反省はしない。利巧な奴は(お前らは)たんと反省してみるがいいじゃないかね。

小林秀雄 
著:石原慎太郎 『私の好きな日本人』 - 小林秀雄 -
より

★観念的左翼陣営の批評家たちが、戦後の流行であった日本の知識人たちの戦争批判を、なぜ一緒にしてくれないのかという言い分に対して、小林秀雄(明治35年:1902年4月11日~昭和58年:1983年3月1日)という日本最強の近代文芸評論家は、この(上記の)ようにいい切り突き放す。また、戦後以降今日まで流行る進歩的文化人なる手合いをこれほど無下に切り捨てた論も滅多にない。何も小林秀雄なる人の権威のせいではなしに、それ以前に、小林秀雄という一人の人間の強固な存在感の故に他ならない、と石原慎太郎は語っている。

若き日の石原慎太郎の小林秀雄との想い出、そして小林秀雄と様々な人々との邂逅などが綴られる中で伝わる小林秀雄への畏敬の念、また微笑んでしまうような逸話もあり愉快である。小林秀雄の他の戦前戦後の数多の知識人たちとの知性の格の違い、それ以上に人間としての分厚さが格段に違うのだ、と言い切る。傍若無人な強烈な個性、さらに保守文化人であり愛国者としての正論等々は、今日の批判反撥を向うにし老骨にむち打ち孤軍奮闘する石原慎太郎という人の姿でもあると想います。石原慎太郎が『私の好きな日本人』の一人に小林秀雄を挙げているのだけれど、すべてに於いて格段の差のある私が畏れ多くも、今生きる日本で、「私の好きな日本人」の一人に石原慎太郎を胸熱く挙げたい。荒っぽい物言いの中に培った教養と体験が帯び、その発言者たるはやはり小気味よいのである。文学者、あるいは政治家としての石原慎太郎という以前に、一人の人間の強固な存在感の故に他ならない。普通ならゆっくり過ごしたい老境であろうに、そうはゆかない今日の憂国ぶり。先述の萩原朔太郎の「古いことの正義」の系譜とも云える気概、粋な姿はかっこいい!
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by claranomori | 2012-02-19 18:58 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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古いことの正義

人が生活熱情や、イデヤや、憧憬や、ヒューマニティや、夢見る強い衝動やを持ってることで、もし時代的に「古い」と言われるならば? 古いことはいかに正義なるかな! 
―或る浮薄なる近頃の唯物主義者や、新時代主義者に向って言うのである。

萩原朔太郎
『虚妄の正義』 -芸術に就いて- より

★萩原朔太郎(明治19年:1886年11月1日~昭和17年:1942年5月11日)は、「日本近代詩の父」と称される、大正時代を代表する詩人であり歌人。萩原朔太郎の詩には直観的に響くものがあった。その高校生の折の私、あの教室の机に座り、なにやら思考に耽る私が蘇るようでもある。10代の多感な時期に強烈な影響を受けたものたちは消え失せはしないようで、この萩原朔太郎の『虚妄の正義』と題された講談社文庫を購入したのは1994年。ついこの間のことのようながら20年近く時が経ている。アフォリズムの嵐の御本ゆえ、大量の付箋と共に年月の割には古びている。この古びた書物と共に私も歳を重ねている。不思議な至福感で心は晴れやかになる。萩原朔太郎の詩に多数好きなものがあるように、またアフォリズムも多数ある。今の私に飛び込んできた言葉の一つがこの『古いことの正義』であった。「かっこいい」と想い気持ちがすっきりした。そして、古びた付箋を新しく幅広のものにし、清々しい日曜日の朝を迎えている。今朝はまだ小鳥の囀りが聞こえないのがやや気がかりかな。

【追記です】
●気がかりな小鳥の声が聞こえました。元気な様子です。いつもよりも軽やかに長めの歌を歌っているようです。いつも私の作業机の近くの窓、あるいは近い処に止まったりしている小鳥たち。ちょっと今朝は私の方が早起きだったのかな。何を歌っているのだろう...と耳を傾けてしまいます。これもまた、私のささやかな至福の時なのです♪
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by claranomori | 2012-02-19 06:10 | 愛の花束・日本の抒情・文学
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★今も復興ままならぬ被害の大きな福島県いわき市に所縁のある美しいお話『安寿と厨子王』。幼き姉弟の強く結ばれた愛情に感動して泣いたものです。私もとても幼い頃に読み、殊に少女の安寿の一途で健気な姿が美しいと想ったものです。この絵(講談社版の「新・安寿と厨子王丸」)に少し似ている気がするのですが、その読んだ御本の題名は『安寿と厨子王』でしたので違うものでした。当時、森鴎外の『山椒太夫』のことは知らず、またこのお話がもっと古い時代からの伝承派生の作品だということもずっと後に知りました。この『安寿と厨子王』の伝承、伝説のお話は佐渡、津軽、京都にもあるのだそうですが、福島県いわき市の安寿と厨子王と母の三人の母子像も有名です。やはり民話のある国は幸せに想います。

この中世時代にまで遡る日本の伝承、説教節『さんせう太夫』を基に、森鴎外が大正4年(1915年)に小説化したのが『山椒大夫』で、次第に童話や児童文学としての読み物になり、1961年にはアニメーション映画としての『安寿と厨子王丸』も公開されたそうです。その映画は未見なのですが、私が知ったのは日本童話としての『安寿と厨子王』が最初でした。

安寿は母親と乳母に連れられ筑紫の父を訪ねる旅の途中、越後の海辺で人買いにだまされて弟の厨子王と共に由良の山椒大夫に売られ、奴婢として潮汲みをさせられる。母は佐渡に売られ、乳母は海に身を投げた。山椒大夫の家での過酷な日々。ある日、安寿は弟と一緒に芝刈りの仕事をしたいと伝えるが、その代わりに男のように髪を切れと命じられる。安寿の美しい髪は切られるが、安寿の顔は喜びに満ちていた。あくる朝、安寿は心配する弟の質問にも答えず山の頂を目指す。そこで、ようやく弟を逃がす決意を伝える。厨子王は自分が逃げた後に姉の身に振りかかる仕打ちを想い躊躇する。けれど、安寿は厨子王に大事にしていた守本尊を与え励まし、取るべき道を細かに論して逃がす。そして、安寿は沼に身を投げ命を絶つ。安寿15歳、厨子王12歳であった。

安寿と厨子王の歳は諸説あるようです。けれど、美しい黒髪を切り男のようになり自らの命を犠牲にして弟を守ろうとする少女の心、その安寿の姿は気丈で美しい。一身を投げ打つ姉の言葉が、弟の耳に神さま、仏さまの言葉に聞こえた。姉を想う優しい弟の幼き心にも胸を打たれる。本来、兄弟姉妹とはこういう姿であるのだろう。逃れた厨子王は母を探し佐渡へ渡る。その行方は容易に知れない。想い悩みながら畑中を歩いていると、ふと目にした百姓屋から女性の声が聞こえる。

安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ。

その歌のようにつぶやく声は、視力を失い髪は乱れぼろを着、瞽女となった母の声であった。そして、母親の見えない目も安寿の大事にしていた守本尊のお陰で見えるようになり、二人はしっかり抱き合う。姉の犠牲と神仏を敬う気持ち。優しさとは気高き心である。細部をしっかり覚えているのではないけれど幾十年経て、こうして文字を打ちながら浮かぶ安寿と厨子王の姿。この御本を与えてくださった天国の両親にも感謝しています。


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by Claranomori | 2012-02-17 18:32 | 愛の花束・日本の抒情
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『茶の本』 著:岡倉覚三 (岡倉天心) 
訳:村岡博 岩波文庫


★明治の文人にして思想家の岡倉天心(文久2年12月26日(1863年2月14日)~大正2年(1913年9月2日)と云えばやはりこの『茶の本』で、私は岩波文庫版で読みましたが、他社からも多数新訳なども発売されています。元々『茶の本』は明治39年(1906年)に『THE BOOK OF TEA』として英文で書かれたもので、当時、岡倉天心(本名:岡倉覚三)がボストン美術館の東洋部顧問時代にニューヨークでの出版が初出で、以下の七章からなる名著です。



第一章 こころの茶
第二章 茶の流れ
第三章 道家思想と禅
第四章 茶室
第五章 芸術鑑賞
第六章 花
第七章 茶の宗匠

★幕末以降、日本の浮世絵などがヨーロッパで流行し、印象派にも多大な影響を与えジャポニスムと讃えられた。けれど、日本の美を理解されたことではなく、東洋的な魅力(オリエンタリズム)として持て囃されたというもの。そこで、岡倉天心は「茶」を商品としてではなく「美」として「文化」として西洋に向けて主張したのが『茶の本』である。

いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、いな、了解しようと努めるであろう

このような言葉を残した岡倉天心は、「茶」を美的表象として唱えることで、血なまぐさい戦争や資本主義の闘争の世界の中で、「茶」の一服の静謐さ、喧噪の外へ心性としての美を「茶」が果たすという、日本及び東洋の「茶」に於ける思想を美的表象として語ったものが『茶の本』であろうと想う。中でも「第五章 芸術鑑賞」が個人的に印象強く残ったもので、「琴ならし」の挿話があり、誰が奏でても不調和な音しか出ない不思議な琴を、伯牙なる名手が手にすると、天地を揺るがすような美しい調べを奏でた。その理由を聞く皇帝に伯牙はこう答える。

陛下、他の人々は自己の事ばかり歌ったから失敗したのであります。私は琴にその楽想を選ぶことを任せて、琴が伯牙か、伯牙が琴か、ほんとうに自分でもわかりませんでした。

この物語は芸術鑑賞の極意をよく説明している。傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。真の芸術は伯牙であり、われわれは竜門の琴である。美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。長く忘れていた追憶はすべて新しい意味をもってかえって来る。恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現われて来る。わが心は画家の絵の具を塗る画布である。その色素はわれわれの感情である。その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。

『茶の本』 第五章 芸術鑑賞 より

東洋の独特の宗教感を帯びた美学である。主体はないのです。それは美しい。そして、この岡倉天心の『茶の本』から100年以上経た今も、天心の云う所の西洋が東洋を了解するには至っていないのではないかと想えます。また、仏教、道教、儒教と云った東洋の教えがあるように、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教...と共に生きる世界中の人々がいる。了解しようと努力し合えることが出来れば闘争も緩和されると期待したいけれど、そんな容易いことでは世界の乱世は治まらない、私利私欲の歴史であるのだから。「一服の茶」の心は今の日本人にもあるはずだと想うけれど、新自由主義へ突き進もうとするのなら、ますます日本の美、日本の心は解体へと向かわざるを得ないのだと、憂国の想いに包まれてしまいます。やはり、嘗ての日本人たちは気高かったと想います。

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by claranomori | 2012-02-14 14:28 | 愛の花束・日本の抒情・文学
★寒い毎日ですね。少し風邪気味で体調はやや不調なここ数日ですが気分は大して変わりはありません。寒い冬、それも子供の頃の自分の姿がふと蘇ります。小学生の頃、冬になると各クラス内にストーブが置かれ、その上にはやかんでお湯が沸かされていました。危険なのでそのストーブの周りには簡単な柵も設けられていた、あの光景も。私はあまり大雪の中で遊んだ記憶がないのですが、小学四年生頃に校庭にも真っ白な雪が積もり、皆で雪だるまを作ったり、雪合戦をしたことがあります。寒いけれど楽しかった。雪合戦ではドッジボール同様に逃げ回ってばかりだったですが、思わず頬の綻ぶ懐かしき想い出でもあります。小学校の先生は、ほとんどの教科をお一人で教えてくださる。音楽の時間も先生がオルガンを弾きながら皆と一緒に色んな歌を歌ってくださり、教えていただきました。「唱歌」との想い出はやはり小学校の六年間にぎっしり詰まっているように想います。

「唱歌」の始まりは『尋常小学読本唱歌』、明治43年(1910年)7月14日発行の、文部省編集の『尋常小学読本』の中にあった韻文教材をとり、これに曲を付けたものが最初の「文部省唱歌」だそうです。そして次の『尋常小学唱歌』、『新訂尋常小学唱歌』と歩むのですが、時代の流れに伴い唱歌の歴史も変わってゆきます。殊にあの昭和20年(1945年)8月15日の太平洋戦争の終戦、日本はその後数年の間、GHQによる占領下で過ごすことに。それまでの文部省唱歌から消えていった歌も多く、新しい歌、例えば童謡なども取り入れられるような教材へと変わる。昭和22年(1947年)5月3日に、日本国憲法新たに公布され、その少し前の3月29日に教育基本法、及び学校教育法も公布され、教科書も新しくされてゆく。嘗ての文部省唱歌から各出版社の発行する民間の検定唱歌教科書が全国の小・中学校で用いられることになり現在に至るというのが大まかな流れのようです。今の小学生と私の時代では随分異なるのでしょうが、それでも、ずっと昔から歌い継がれ親しまれて来た唱歌たちは、日本人の心の中に生き続けてゆくと想います。知らない昔の唱歌の詩を読むのも愉しいです。言葉の中にその時代が窺える。また、時代が移れども変わらぬものを見つけることも出来ます。そんな失われつつも心に残り続ける日本の文化に出合える喜びに感謝してはほろりと涙が出ます。

今日2月11日は、東日本大震災から11カ月を経た日であり、建国記念の日でもあります。建国記念の日とは紀元節。明治の唱歌の中に『紀元節』という歌があります。元は『紀元節の歌』(明治21年2月)というものだそうです。

紀元節

雲に聳ゆる髙千穂の、髙根おろしに、草も木も、
なびきふしけん大御世を、仰ぐきょうこそ、楽しけれ。

海原なせる埴安の、池のおもより猶ひろき、
めぐみの波に浴みし世を、仰ぐきょうこそ、たのしけれ。

天つひつぎの髙みくら、千代よろずよに動きなき、
もとい定めしそのかみを、仰ぐきょうこそ、たのしけれ。

空にかがやく日のもとの、よろずの国にたぐいなき、
国のみはしらたてし世を、仰ぐきょうこそ、楽しけれ。

『小学唱歌 第一巻』 明治25年(1892年) 明治21年2月(1888年)
作詞:高崎正風 作曲:伊沢修二


★日々想うことが色々あります。私も歳を重ねているのだと再認識しながらも、日本の長きに渡る歴史や文化の中で静かに息づくもの、その美しさは何だろう、と訪ねる折に出合うのはやはり日本語なのです。大和言葉と云うのでしょうか、危うくGHQにこの美しき日本語を剥奪されかけていた時代のこと、その中で毅然と守り続けようと闘い続けていた先代の日本人方にもやはり「美」を感じてなりません。日本中が焼け野原となってゆく中で、広島、長崎に原爆まで投下されて、もうこてんぱんに打ち拉がれた。食べ物が兎に角無かった。当時の子供たちが"ギブ・ミー・チョコレート"と進駐軍にねだる、彼ら子供たちにも其々の想いがあったでしょう...、中には悔しいけれどひもじさを免れるために、また食べたことのないチョコレートやチューインガムにアメリカという国へ羨望を抱いた少年少女たちも。

大東亜戦争、太平洋戦争という第二次世界大戦の終戦後から今もまだ、否、さらにアメリカ主導の下、あの星条旗の51番目の星が日の丸になるのだと語るアメリカ人も居るという。アメリカだけではなくまったく日本と違う共産主義国の中国もじわじわと日本の土地を買い、尖閣諸島を取ろうとしている。韓国には島根県の竹島という日本の領土を既に実行支配され、北方領土のロシアの実行支配のように、だんだんもう戻っては来ないのではないだろうかと憂うのです。論外の北朝鮮による日本人拉致に於いては、心底悲しみと憤りを覚えます。以前、"もうそろそろ良いのではないだろうか"と書いたことに含みは多いです。自分でもまだはっきりしない心もあります。よく人権という言葉を掲げて訴えかける人々が居られます。それも行動ですから良いと想いますが、人間が人間を拉致するという行為はやはり異常なことです。まだ13歳の少女だった横田めぐみさん、その他の人々は今どうしているのだろう。小学生の折に、"海辺で人が消える"というようなお話をお友達とお話していたことがありました。何かの雑誌で知ったのでしたが、その頃は謎ばかりで、神隠しに遭ったのだと云う人も居たこと、そして、すぐにその話題から私も離れてしまって年月を経て生きてしまった。でも、あの小学生の頃、何も知らない無知な幼い私の姿は事ある毎に蘇ります。記憶とはとても不思議です。そんな憂国の気分を和らげてくれるもの、それは美しき日本の言葉であり響きです。私は世界の詩篇も含めて、やはり詞華というものに触れることが大好きなようです。

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夜の梅
文部省唱歌

梢まばらに咲き初めし
花はさやかに見えねども、
夜もかくれぬ香にめでて、
窓はとざさぬ闇の梅。

花も小枝もその儘に
うつる墨絵の紙障子。
かおりゆかしく思えども、
窓は開かぬ月の梅。

『尋常小学唱歌(六)』 大正3年6月(1914年)
作曲:岡野貞一 作詞者:不詳

★今日は明治の唱歌の中からあと二つばかり。冬の情景を歌った『夜の梅』という、行間から漂う美しい響きに胸を打たれる唱歌、そして『冬の夜』という、家族が囲炉裏で暖を取りながらの光景、この唱歌の中に「いくさ」という言葉があるので、日清か日露戦争のことであろうかと想われますが、その時代の日本をこうした優しい調べの中にも見い出すことができること、それらからまたさらに色んな想いが巡り続ける日々でもあります。

冬の夜 
文部省唱歌

燈火ちかく衣縫う母は
春の遊の楽しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数かぞえて喜び勇む。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪。

囲炉裏のはたに繩なう父は
過ぎしいくさの手柄を語る。
居並ぶ子どもはねむさ忘れて
耳を傾けこぶしを握る。
囲炉裏火はとろとろ
外は吹雪。

『尋常小学唱歌(三)』 明治45年3月
作詞者・作曲者:不詳



●明治の小学唱歌の『紀元節』或いは『紀元節の歌』です♪

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by claranomori | 2012-02-11 05:57 | 愛の花束・日本の抒情・文学