『女生徒』 著:太宰治 挿絵:北野万平
2008年 11月 06日
この小説の中の少女の姿に感情移入できるのは、この頃ならではの潔癖性のようなものかもしれない。それも人それぞれだけれど。また、この少女は近眼で眼鏡をかけている。その顔が好きではない様子もとてもよく分かる。似た感情を持っていたのでとても好きな箇所がある。
朝は、いつでも自信がない。寝巻きのままで鏡台のまえにすわる。めがねをかけないで、鏡をのぞくと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。自分の顔の中で一ばんめがねがいやなのだけれど、ほかの人には、わからないめがねのよさも、ある。めがねをとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のように、のぞき絵みたいに、すばらしい。きたないものなんて、何も見えない。大きいものだけ、鮮明な、強い色、光だけが目にはいってくる。めがねをとって人を見るのも好き。相手の顔が、皆、優しく、きれいに、笑って見える。それに、めがねをはずしているときは、決して人とけんかをしようなんて思わないし、悪口も言いたくない。ただ、黙って、ポカンとしているだけ。そうして、そんなときの私は、人にもおひとよしに見えるだろうと思えば、なおのこと。私は、ポカンと安心して、甘えたくなって、心も、たいへんやさしくなるのだ。
だけど、やっぱりめがねは、いや。めがねをかけたら顔という感じがなくなってしまう。顔から生まれる、色々な情緒、ロマンチック、美しさ、激しさ、弱さ、あどけなさ、哀愁、そんなもの、めがねがみんなさえぎってしまう。それに、目でお話をするということも、おかしなくらいできない。
それから幾年も流れ私の近眼はさらに進んだので、似合わない眼鏡だけれど無くては何も見えない。眼鏡の似合うお方を見るのは好き。そして、今でも眼鏡をはずしてポカンとしているのが好き。下の挿絵はこの少女が二匹の犬と一緒のもの、ジャピイとカアという名。楽しく遊んでいるのがジャピイ。ショボンと寂しそうなのがカア。ジャピイは真っ白で綺麗だから可愛がる。カアは体が不自由で汚いから、わざと意地悪くしてやる、というような箇所がある。こういう少女は嫌いだけれど、そんな意地悪さを知っている。私も綺麗な美しいものばかりを見たりするので、高校生の時に指摘された。でも、意地悪くしたりはしなかったつもり。汚いと想うものを見ようとしなかったその頃の私、つけが廻って今になり目を見開いて見つめる試練を得ている。ああ、まだまだ青二才。