『ロリータ・コンプレックス』(ラッセル・トレイナー)の再読で、共感と違和感を伴う私の少女像
2008年 06月 23日
この御本の中で、私にとって極めて大きな共感を覚えるものは、所謂”ロリータ”は誘惑者であるということ。ロリータとはニンフェットである(ナボコフの定義は9歳から14歳、『ロリータ』の中では12歳、ハンバートが50歳)。体は子供ながら心の中で女であることに目覚めている少女たち。きっと世界中にこのようなロリータたちはこの御本が書かれた時代よりもさらに増えているだろう。また、ハンバートは少女性愛者、あるいはチャイルド・ラブという言葉で記されている。現代ではさらに幼児(童子)への虐待や犯罪も増え、規制も厳しくなっている。規制されるとさらに増え、また湾曲化された誤解をも招くこともあるだろう。私も危ない人に想われるだろう、ある人たちからすれば。でも、私は何と言われようが言動に責任を持っているし、ナボコフが蝶の収集家であったというように、私は脳内で鑑賞しているのかもしれない。”愛すべきもの”や”美しいもの”たちと共に。単なる”カワイイもの”が好きな大人ではないと想っている...まだまだ青二才ながら。
以下は、興味深いラッセル・トレイナーの考察の一部。
ロリータイズムの浸透を防ぐためには「警戒」と「知識」こそ分別のある人のモットーであるが、「知識」がなければ、「警戒」もできない。このため―すべての人びとによりよく理解してもらうために―それ自体ショッキングで、ときとすると恐ろしい病症記録をこのリポートのなかに記録し、現代の世界へ警告とするのである。
子供への大人の責任と共犯関係について、ウラジミール・ナボコフは『ロリータ』の「はしがき」でつぎのように述べている。
「・・・・・この深刻な個人の苦闘の底には、ある一般的な課題がひそんでいるからである。ひどく気まぐれな少女、気まま勝手な母親、欲望にもだえる狂人など、それらは、一つの珍奇な物語になまなましく描かれた登場人物であるばかりでなく、われわれのなかにひそむ悪の力を指摘しているのである。さらに『ロリータ』は、安全な社会のなかで、よりよき世代をはぐくむ仕事にたずさわっているひとたち―両親や社会事業家や教育者たちすべてに対して偉大な警告と洞察力とを与えるであろう。」(大久保康雄氏訳)
他にも興味深い箇所がいくつかあり、ドキリとさせられるのだけれど、さらに確信するように感じた。”少女”という中で避けて通れない"ロリータ”を自分なりに考えたりする(しなくても良いのだけれどしてしまう)。そして、私はやはり、儚き束の間の”少女から大人になる狭間の刻”が好きであり、ファッション化された少女像やロリータというイメージから離れた処に立ち返るようだ。故に、実年齢も見た目もすっかり大人の女性ながら少女の心をも持ち合わせ、複雑な社会の中で生きる”往還する女と少女”に魅せられる...誘惑者のロリータたちよりも。または、身も心も少女である無垢なる存在は神聖なものだと愛するのかもしれない、ルイス・キャロルのように♪
※少女愛惜、少女幻想...私は何故だかずっとそれらを考えて生きている。その幻想を追う作業のようなことは自らと向き合うことにもなるので拙い想いを綴らないわけにはゆかない。でも、まだまだほんの途中なのだ。子供のときに、社会がこんなに苛酷だとは考えもしなかった。今は社会人となりその現実の中を生きている。私の愛しい少女たち(少年たちも)はそんな私に生きる力をも与えてくださるのだ。美しき心の住人たちには大人もいる。それら全てのお陰で呑気なように想われるかもしれないけれど、人生謳歌しているつもり。泣き悲しむことはいくらでもある、心が毒されるものが蔓延している。でも、心穏やかに生きてゆきたい。なので、まだまだ誤解されることを書いたりするかもしれないけれど、私は私の求める少女たちを大切に、そして、できるだけそぉっと耳を澄まして見守るかのようにありたい☆
ヴィクトリア朝時代の永遠の少女♪