アン・ブーリン:ANNE BOLEYN 『エリザベス一世の母』であり『ヘンリー八世と六人の妻たち』のおひとり
2008年 05月 12日
アンは宮廷の誰からも可愛がられ、ルイ十二世の娘クロードの保護のもとに教育を受ける。音楽、舞踏、刺繍、そしてラテン語に至るまで、宮廷マナーとともに磨きをかけたアンは、1522年まで(27年まで説もある)フランスに滞在。1527年には王妃キャサリン付きの女官として出仕していたそうだ。見違える程のレディーに成長したアンを見初めたヘンリーは、アンとの結婚のためキャサリン王妃との結婚を無効にし、最初は気の進まぬアンだったそうだけれど1529年頃から関係をもち、1533年9月7日、アンはグリニッジ宮殿で女子を出産(後のエリザベス一世である!)。ヘンリーは男子が生まれてくるものとばかり思っていたので落胆は大きかった。その後、男子を授かるが流産してしまう。前回以上の落胆のヘンリーを前に、アンは悲鳴に近い声をあげたという。お二人の関係は急激に冷め出しヘンリーは他の女性へと...。載冠まで済ませた王妃アンとの別離の方法は、前回同様に”結婚の無効”による方法しかなく、その無効理由に腐心した。しかし、信じられないけれど、このヘンリーはアンをロンドン塔に閉じ込め、宮廷の男性たちとの不倫を理由に収監させたのだ(狂っている!)。アンは無実の手紙も書いているけれど、その逮捕から二週間後(1536年5月15日)、王妃姦通の裁判が開かれ、その不公平な仕組まれた裁判の結果、アンは断頭の刑に処されてしまう。5月19日、29歳の生涯を終えた。そして、ヘンリーはその処刑から僅か10日後に、予てから関係のあったジェイン・シーモアを3人目の妻とする。ロンドン市民も流石に仰天したという!この不品行の悪名高きヘンリーは、イングランド王最初の梅毒を患った王としての記録を残しているそうだ。因果なことに、長男エドワード六世の夭逝は、ヘンリーの悪行の祟りであるとも。きっと、そうに違いない。
≪追記≫
※アン・ブリーンと呼んでいたのですが、ブーリンの方がポピュラーだと知りましたので、この記事のタイトルをブーリンに変更致しました。秋に公開の『ブーリン家の姉妹』も楽しみです♪(2008.8.31)