『聖なるもの』ミシェル・レリス (『天使のささやき』植島啓司 より)
2008年 03月 01日
それは、父の持物や岩の大きな家のように、心うばうなにか、競馬騎手の華々しい衣服や、エキゾチックな響きをもつある種の言葉のように、人の意表を突くなにか、赤く燃えている石炭や、あちこちにいかがわしい人々のさまよい歩いているブッシュのように、危険ななにか、胸を引き裂く一方で、私を悲劇の主人公にかえる咳の発作のように、異なった二つの性質を持つなにか、大人たちが儀礼をとり行う客間のように、禁じられたなにか、便所の悪臭の中で秘密議会のように、秘密ななにか、ギャロップで走る馬の跳躍や、言葉の持つ底が何重にもなっている箱のごとき性質のように、めくるめくなにか、要するに、何らかの形で超自然的なものの刻印を打たれているなにか、とよりほかに私はうまく考えられないなにかなのです。
このように、ミシェル・レリスは漠然とした曖昧な”聖なるもの”の根源を探ろうとした言葉が記されている。ミシェル・レリスという名はシュールレアリスムの作家・詩人として微かに知っているに過ぎない私ながら、この植島啓司氏の『天使のささやき』の中で最も気になったというのか、私にも伝わる”ことば”が胸に響いたという感じ。
われわれの感性とかイマジネーションを形作ってきたもっとも核になる一連のイメージは、次第に記憶の裏側へと隠れてしまい、なんとなくなつかしいとか、切ないとか、暖かいとか、不吉な、とかいった気分にとってかわられていく。かつて出会ったものと、われわれはもう出会うことができないからである。まったく同じものを見ても、もはや感動はない。それらはいかなる刻印も押されてないからだ。それらは単なる個人的なノスタルジーの域を越えることはないのである。
『日常生活における聖なるもの』 植島啓司
聖なるものはなにも特別なものではないようにも想える。とりわけ幼い頃に感じた深層的なもの、内的なもの、もう見ることの出来ない風景や心象...多忙な日々に埋没し物質に溺れ機能重視な社会の機械人間のように過ぎ行かず、心の奥底にある聖なるなにか、私の普遍的な尊いなにか、できるだけそんな親しい刻印をおされたなにか(時に怖いこともあるけれど)との関係を大切にして行けたらいいなあ...と想う。上のハンス・ベルメールの人形のお顔や体から何を感じるか?何も感じない方もいれば、なにかを感じる方もいる。私はできれば彼女と私のいる場所の距離を近づけたいと想う...こんな感情もとても曖昧な言葉にしかできないけれど...少しずつ☆