ヴァレリー・ラルボー(VALERY LARBAUD)の『幼なごころ』 を読み想うこと
2007年 09月 27日
この『幼なごころ』 には10篇の「子供の情景」のようなお話が収録されている。まだ1度通して読んだだけなのだけれど、2度読んだ箇所がある。きっと、最初に私の心が動いた、あるいは心に刺さった、あるいは心に届いたものなのかな...「ドリー」というお話。ドロシー・ジャクソンという12歳の少女が病気で死んでしまう。そして、同じく12歳のエルシーという少女の心の描写をラルボーは巧みな学識を隠しきれずに、でもとても軽やかに綴っている(この文体の特色はどのお話にも通じるようだ)。
どれも好きだったのだけれど「夏休みの宿題」という一篇より。
「自由と楽しさに満ちていたので、ぼくは本能的に至上の楽しみを、すなわち利害を超えた純粋な精神活動からなる楽しみを探し求めていた。」
とあるのだけれど、正しくヴァレリー・ラルボーというお方の生涯そのもののように想う。補遺の中に「彼が「幼なごころ」を書くとき、英雄的な仕事のなかにまで彼のあとを追い彼を支えてくれるのは、家庭への思いではなく、いちばん背の高い女の子と小さな女の子へと向かう彼自身の心のふるえるような歩みであり、彼女たちにいろいろと教えてもらい、案内してもらい、目に見えないさまざまな危険から守ってもらいたいという欲求にほかならない。彼は自分のなかに謙遜と無垢という古い宝をふたたび見出し、小声で歌い、その歌がわずかの人びとにしか聞こえないようにと願う。」とある。
美少女や醜い少女、それは見かけだけのこと。心の無垢さ、残酷さ(純粋さ故の残酷もあるけれど)は容姿とは比例しない。私は子供の頃からお姫様が主人公の童話も好めば、ヘレン・ケラーのような可愛そうな境遇の少女、赤毛のアンのような孤児の少女に胸を動かされてきた。その気持ちは今も変わらず”好きな少女たち”として継続している奇跡に感謝したい☆
そして、寺山修司のアフォリズムの中のあるお言葉が時折聞こえてくる。
「美しすぎる童話を愛読したものは、大人になってから、その童話に復讐される。」(さかさま世界史)より。
既に復讐されているようである。なので、しかし、私は自分の心の喜びに向かっていたい。時に出逢わなければならない心の闇の部分にまで影響することもあるけれど。それも愉し♪社会の悪意の潜む中を歌声高らかに生きてゆきたいと願う未熟者の処世術なのかもしれない...。