前述の記事を書きながら、「八百万の神」と云いながら、はて、それはどこから来たのだろう?自然と共に生きてきた日本人には、漠然とこのような想いは多く共通するものだと想います。今全国で桜の季節の折、ちょっと思い出した桜のお姫様(女神)のこと。日本最古の書物である『古事記』より以下引用させて頂きます。
我が女ニたり並べて立奉りし由は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如くに、常はに堅はに動かず坐さむ。また木花の佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如栄えまさむと誓ひて貢進りき
古事記
1200年以上も昔の『古事記』の漢字や仮名遣いは、現代国語に慣れた私達には読み辛い。今も文字を打ちながら変換出来ずに時間がかかりました。けれど、そんな面倒な作業の中にも多くの学びと愉しみを感じてもいます。我が女二たり(わが娘二人)の我がとは父親の大山津見で、二人の娘とは「石長比売」《いはながひめ》と「木花之佐久夜毘売」《このはなのさくやびめ》。ニニギが笠沙の岬で出会った美しい乙女に求婚する。乙女は自ら返事をすることはできず、父がお答えいたしましょう、という流れで、たいそう喜んだ父は姉のイハナガヒメを添えて献上した。ところが、ニニギは美しいサクヤヒメだけを傍におき、醜い姉のイハナガヒメは送り返してしまった。このことを父は恥じ、「もしも二人の娘と結婚していたら、あなたの命は石のような不動性と、花のような繁栄を同時に手にすることができた。けれど、サクヤヒメだけを留めたので、天つ神の御子の寿命は花のように短くなるでしょう」と云う。
醜い姉とされるイハナガヒメがお気の毒に想いながら、この美しい乙女サクヤヒメとの対比は石と花。石も美しいと想うけれど、花は美しいが短命、というイメージがあるので分かり易いです。コノハナノサクヤヒメの「サク」は「咲く」であり、「ヤ」は感動を示し、「咲く」には「栄え」「盛り」「酒」などと同根の、内なる生命力が外に向かって放たれる意味があるという。その象徴的なものが満開の桜であり、サクヤヒメという名に桜を想起させる。「サクラ」の「サ」は早乙女の「サ」と同様に神威の現れとし、「クラ」は神の寄りつく場所だとされ、木の花に宿る精霊、花の精なのだろうと想えます。大山津見にはもう一人の娘「コノハナノチルヒメ」がいるそうで面白いです。咲き誇る花と同様に、また散りゆく花にも神威を見たのですね。日本人には古来からこのような、木々、草花には神が宿るという、森羅万象の風土があると想います。それはやはり八百万の神であり、多神教の国日本を象徴しているようにも。またこのような観念から日本人は一神教であろうと他の神々、他の宗教にも寛容であるのではないでしょうか。ケルト、北欧、エジプトの神々などにも通ずるように想います。そんな神話、精霊と共に生きる世界観、愛らしく美しく、また儚げなお花たちの物語が私はとても好きです☆
●今日の読書、調べものは『古事記の読み方 - 八百万の神の物語』(著:坂本勝)を参照させて頂きました。