わあ!何と今年最初の投稿となります。いつも気にかけてくださっている皆様、ありがとうございます!年末年始とバタバタしており、確定申告も終えましたので、そろそろブログの更新ものんびりですが頑張ろうと思います。お正月の初詣の折のおみくじに書かれていた言葉は、私自身の想いととても重なる尊きお言葉でした。総じて「これまでの歩みに誠実に励みなさい」というような意味だと解釈しました。私の場合、気が付けばずっと「音楽」に関わるお仕事で、それには何か深いご縁をも感じています。10代の頃から「生きるということは何だろう?」「なぜ、大人になってゆくのだろう」「どうして、こんなに音楽が好きなのだろう?」「ボウイはどうしてこんなに美しいのだろう!」「美とはなんだろう?」...etc.と「なぜ?」ばかりの自問自答人生を続けています。
大好きな音楽や映画、文学や絵画の中から数多の発見と学びの日々はずっと続くのだと思います。「たかが音楽、されど音楽」な訳で、どうした事か大好きな音楽の多くには各アーティストの主張があったり、抽象的な歌詞であっても強く響く言葉がある。また時に歌詞のない音楽のメロディから響く詩もある。それはどうしてだろう?その時の社会とは?と、その国々の歴史背景を調べてみたりしていると、太古の時を往来する事も多い。そんな音楽たちが大好きでたまりません。人其々の音楽の愉しみ方がありますが、どうも私は探求したいようです。その起源はデヴィッド・ボウイという稀有なるアーティストに魅せられた者の宿命だと拝受。答えの見つからない難題である「音楽ってなんだろう?!」という永遠のテーマを傍らに、愛しきものたちと人生を共に、これからも歩んでゆけたら本望だと思います。
そんな想いの中、再読したフルトヴェングラーの最晩年(1954年)の『音と言葉』という音楽評論集の中に、とても共鳴した文章がいくつもありました。ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(WILHELM FURTWANGLER:1886年1月25日~1954年11月30日)は、西ドイツ、バーデン出身の指揮者であり作曲家。20世紀を代表する指揮者のお一人であり、また作曲家としては後期ドイツ・ロマン派の系譜にあるとされる。けれど、ご本人はその後期ロマン派との呼称に複雑な想いを抱いておられたようでもあります。第一次世界大戦、第二次世界大戦と大きな二つの戦争の時代を生きたお方で、ワーグナー、ベートーヴェン、バッハ、ブラームスの悲劇的生涯の中に問いつめ、悲しみ、哀惜せずにはいられないフルトヴェングラーの芸術家としての危機感、その想いは、生きた時代も国も異なる私にも伝わるような気がします。
「私たちはもう芸術の中に生きているのではない。単なる傍観者になってしまった」というフルトヴェングラーの嘆き。それはもう後戻りできない科学の進歩の中で、時計の針を戻すような思考ではなく、人間の情、生命、故郷をも忘れてはならないのだという、悲痛なる嘆きに思えます。ある意味、わが国日本に於ける明治の維新が復古でもあったこととも通ずるような。
―少なくとも今日のための―基底となるよう、この国の中へ、家々の中に降りてきていただきたい。あがない得た歴史的な展望を、指針として用いるべきであって、支配せんとするために使用してはなりません。芸術作品という不回帰の出来事を、それは直接我々に関する出来事であるゆえに、歴史的な関連と同様に、いやむしろそれ以上に尊敬していただきたいのです。真の偉大さに対する愛、熱狂的な、なんの保留をも付けない献身的な愛情を持つことを、もう一度学んでいただきたい。
『音と言葉』 すべて偉大なものは単純である フルトヴェングラー
一言にしていえば、「美しい心を取り戻す」という事だったかもしれない。この意味で彼はゲーテやトーマス・マンなどとは血縁であり、余り遠く隔たった所にいたのではない。彼の名演奏の秘密の一端はそこにうかがえるような気がする。
芳賀檀 あとがき より
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、リヒャルト・ワーグナーの『ジークフリート牧歌』です♪