『花のように』 詩と絵:永田萌 (1986年)
2013年 01月 12日
『えんぜるになりたい
花になりたい』と
うたったあの詩人の
孤独で美しい魂は
どんな花になり
このひかりの中
このやさしい風に
揺れているのでしょう
野に咲く花を見るたび
わたしもつぶやきます
花のように生きたい・・・と
詩:永田萌
★永田萌さんの1986年の『花のように』という小さな絵本のような詩集の中の一篇です。母に感謝していることの一つに、このようなやさしい言葉たちを美しい絵と一緒に綴った絵本や童話などを、幼い私にさり気なく与えてくれていたこと。この詩集が発売された頃はもう自分で読みたい御本を選んで買っていましたけれど。
子供の頃は田畑が近くに幾つかあり、お友達と一緒に、春にはたんぽぽや綿毛、蓮華草でお花の冠や首飾りを作って遊びました。お互い作ったものを交換しあったりもしました。懐かしい風景が蘇ります。美しく神々しく咲き誇る豪華なお花も綺麗ですが、そおっと野に咲くお花や道端のお花もまた愛らしいです。
子供の頃ならよく野花を摘んでいたのですが、今は見つめるだけで十分なのです。摘んでしまうと可哀相な気もしますし。悲しい気分の折や何か冴えない気分の折に、これまで数えられないくらいに優しく囁きかけてくださったお花たち。おセンチで甘ったるいと想われるお方も居られるでしょうが、人間の方が上等だとは想わないのです。枯れてしまう儚き命の花々が可憐に咲き誇る。その彩や芳香で人間の邪悪な汚れた心を吸収してくださる。見つめて「綺麗だな。」「可愛いな。」と心が休まる私は生へのエネルギーをお花から頂き、私の闇の心を可憐なお花が受けてくださる。なので、欲の無い花々は枯れてもなお美を残すのでしょう。
今年も早々から、幾人かの友人知人から勇気や励ましのお言葉を頂いています。ブログにコメントをくださる皆様にも本当にいつも感謝しています。つらつらとその時々の私の他愛のない綴りに共鳴してくださることが嬉しいです。嗜好は千差万別、感性もそれぞれ。だから愉しい。好き嫌いや偏狭な思考に偏ることなく、可能な限り寛容でありたいと想っています。人生の半分、宙ぶらりんの年齢になれどいつまでも修行は続く。生や自由を尊ぶこと、それは不自由であるからこそだとも想えます。なので、今年も幾つも私に苦難が訪れるでしょうが、それ故に人生の、自由の尊さを感じ得ることができるのだと。泣いた数だけ微笑むことが出来る。探せば幸せは必ずある。欲張らずに小さな幸せが。そんなことを無心の花々を想い、再確認しています。皆様、いつもありがとうございます☆