三島由紀夫に学ぶ 『美について』 ★ 『三島由紀夫のフランス文学講座』 再読にて想うこと。
2011年 12月 29日
毎年11月25日になると、母は「今日は三島の命日だ」と云っていた。私に云うのでもなく、まるで独り言のように呟くのだった。三島文学ファンの母、ドストエフスキーやリルケの分厚い書物が両親の本棚にあったこと、私が10代から好んで読んできたドイツやフランスの作家たちの作品などとが、時間がかなり必要だったけれど、今、ようやく繋がろうとしているように感じているところ。人生は楽ではないことを前提にしなくては謳歌もできないと想う。また、「生」と同じくらい「死」が常に傍に在るということも。フランス・ロマン主義(ロマン派)、英国ヴィクトリア時代のラファエル前派の保守主義が美に昇華する様がたまらなく好き。これらの作家や画家、音楽家という芸術家が政治の世界に身を投じることが多々あった。三島由紀夫から学ぶべきことは多い私です。「美について」の最後に「現代に於ける美の政治に対する関係について、ゆっくり考えたい。」と書かれたのは1949年6月25日。まだ日本がGHQ(連合国軍総司令部)の占領下にあった昭和24年のこと。そんな時代のこと、あの大きな戦争の終戦の傷痕を伝える映画や文学が好きであるのと、ナチス占領下にあったパリの時代が描かれた映画や文学が好きであるのは、なんとなく私の気分に合うものゆえに。なぜだか、涙が溢れます。
日本に於いて美は、人間主義の復活を意味せず、「生の否定」という宗教性を帯びるにいたる。
仏教的厭世観と美の結婚(これは江戸末期まで続いた)は、実は、宿命観と現世主義との微妙な結合ではないのか?
『三島由紀夫のフランス文学講座』 より
★追記です。
フランス・ロマン主義作家のフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンが政治的意味合いでの「保守主義」という言葉を使った最初のお方だと云われています。やはり、私の心が共鳴するものは変わりはしない。時代は移りゆくけれど、歴史や伝統の中から学ぶべきことはいつの時代にもあるのだと想います。私が死に至った後もなお、日本は日本として生き続けることの尊さを想うのです。