★自分でも不可思議なことながら、「ボウイ館」をここ数日更新している。そして、5/29の『VELVET MOON15周年イベント』までは毎日更新しようと心に誓った。そんな中で、以前綴った
映画『クリスチーネ・F』の
劇中でのボウイのライヴ映像を観ていて涙が止まらないのだった。「ボウイ館」でそのことは触れてはいない。今も目が痛くてたまらないけれど、綴っておかなければ...と想うままに。この映画の中のクリスチーネ(ナーチャ・ブルンクホルスト)は美少女。その少女が(友人たち少年少女も)転落の道を辿る。この画像は、その大好きなボウイのコンサートの舞台を見つめるクリスチーネ。周りの笑顔のファンとは違う。この眼差しに私は胸が締めつけられる程に感情移入できる。クリスチーネにとってデヴィッド・ボウイとは神に等しいのだ。プラットホームでボウイのコンサートを知る時、クリスチーネは劇中唯一の笑顔を見せる。あの瞬間、あの場面が大好き。また、このボウイのライヴを見つめ微かな笑みのようなものも感じられるけれど、夢か幻か、その場の自分さえ分からない。得たことの無い感情を初めて覚えた時の戸惑いは誰もが体験しているだろう。私はボウイを最前列で拝見したことはないけれど、このクリスチーネの心の拠り所である存在がボウイなのだと共感できる。13歳の美しい少女。私は少女映画(少年も)が好きなので色々なテーマのものを観るけれど、この映画は異色中の異色。おせっかいな説明(教訓)など一切無い。すべて少年少女たちの行動を映す。悲しいのは、大好きなボウイのレコードをお金に換えてまでヘロインという魔に引き寄せられてしまう...。少女たちに笑みを与えることができるのは日常を共に過ごす大人たちではない。ボウイだから感情移入できるのかもしれないけれど、この思春期の心の揺れ、葛藤、不安、孤独感をどのように通過してゆくのかは人それぞれ。立派な大人になれる人もいれば、まだこんな具合の私のような者もいる。少女から大人への通過儀礼に失敗したのだろうか。よく分からないので、こうして想いを綴る。いつになれば解放されるのだろうか。死に至るまでの覚悟が必要なのかもしれない。